2018年7月24日火曜日

「連合艦隊の栄光と悲劇 吉田俊雄」を読む。 ○ 著者吉田 俊雄(1909~2006 享年97)は元海軍軍人最終階級は海軍中佐。筆致は海軍愛に満ちている。 ○ 連合艦隊の栄光を象徴するのが東郷平八郎であり、悲劇を象徴するのが山本五十六である。 ○ 海軍に志を立てたもの、誰しも一度は連合艦隊司令長官となって、大将旗を旗艦のマストに翻し、海の香一杯の快いそよ風を浴びて、艦橋の晴れ舞台に立ち、全軍を一望のもとに収めて、命令一下、これを意のままに動かしてみたいと思わないものはなかった。 ○ しかし、ひとたび祖国が敵国と干戈を交え、連合艦隊にも出撃の大命が下れば、連合艦隊司令長官は、一転して人間以上の「鬼」であることを求められる。人の生命を、作戦達成のために犠牲にする、世にも苛酷な、凄まじい「鬼」である。 ○ 連合艦隊司令長官となった者は常に「絶対不敗」の十字架を背負っていた。 その厳しい使命を遂行するために、男たちは、いかに思考を尽くし、戦いに挑んだのか。 本書では、この孤高の男たちの代表である、日露戦争の東郷平八郎、太平洋戦争の山本五十六がしるした足跡を辿りながら、日本海軍の栄光と悲劇の歴史ドラマを鮮やかに蘇らせる。 ○ 明治維新後に帝国主義に邁進し軍隊を造った弱小国日本が日露戦争に辛うじて勝って世界の一等国の仲間入りをした。 ○ そしてその最大の貢献者は本書の前半の主人公である東郷平八郎である。 日露戦争には日清戦争後に取得した遼東半島を返還させられるといった三国干渉(特にロシア)に対する臥薪嘗胆のスローガンと帝国主義か植民地化かといった時代背景とが重なり軍部と国民と政府との歯車がかみ合っての勝利であった。 ○ その歴史的勝利が太平洋戦争では一番の足枷となったことは事実である。 そして英雄となった東郷的精神論が太平洋戦争でもまかり通ってしまったことが敗戦の第一要件であった。日露戦争から40年弱、日本は戦争らしい戦争を体験していない。 ○ 第一次世界大戦を体験した欧州は戦勝国も敗戦国も廃墟と化しました。明らかに日露戦争後の戦争は経済(物量)戦争的に変化した。 その事実を知っていたのは連合艦隊では山本五十六であろう。 ○ 太平洋戦争においては日本海軍は、開戦劈頭、ハワイ真珠湾の敵主力艦隊を猛撃撃破し、アメリカ海軍とアメリカ国民を士気阻喪におとしめる作戦であった。しかしアメリカ空母は完全に無傷であった。またかえってアメリカは士気盛になって、日本海軍の作戦は効を奏しなかった。 ○ 続いて行われたミッドウエイ作戦では、日本海軍は航空母艦4隻とその艦載機多数を一挙に喪失する大損害を受け制海権を失った。原因はアメリカに日本海軍の暗号が解読されていた事が大きい。 この敗北は国民にも、海軍内部でも極秘とされた。 ○ 東郷と山本という正反対の2人の提督。時代が違えばきっと与えられた評価も大きく違ったであろう。

「連合艦隊の栄光と悲劇 吉田俊雄」を読む。
○ 著者吉田 俊雄(1909~2006 享年97)は元海軍軍人最終階級は海軍中佐。筆致は海軍愛に満ちている。
○ 連合艦隊の栄光を象徴するのが東郷平八郎であり、悲劇を象徴するのが山本五十六である。
○ 海軍に志を立てたもの、誰しも一度は連合艦隊司令長官となって、大将旗を旗艦のマストに翻し、海の香一杯の快いそよ風を浴びて、艦橋の晴れ舞台に立ち、全軍を一望のもとに収めて、命令一下、これを意のままに動かしてみたいと思わないものはなかった。
○ しかし、ひとたび祖国が敵国と干戈を交え、連合艦隊にも出撃の大命が下れば、連合艦隊司令長官は、一転して人間以上の「鬼」であることを求められる。人の生命を、作戦達成のために犠牲にする、世にも苛酷な、凄まじい「鬼」である。
○ 連合艦隊司令長官となった者は常に「絶対不敗」の十字架を背負っていた。
その厳しい使命を遂行するために、男たちは、いかに思考を尽くし、戦いに挑んだのか。 本書では、この孤高の男たちの代表である、日露戦争の東郷平八郎、太平洋戦争の山本五十六がしるした足跡を辿りながら、日本海軍の栄光と悲劇の歴史ドラマを鮮やかに蘇らせる。
○ 明治維新後に帝国主義に邁進し軍隊を造った弱小国日本が日露戦争に辛うじて勝って世界の一等国の仲間入りをした。
○ そしてその最大の貢献者は本書の前半の主人公である東郷平八郎である。
日露戦争には日清戦争後に取得した遼東半島を返還させられるといった三国干渉(特にロシア)に対する臥薪嘗胆のスローガンと帝国主義か植民地化かといった時代背景とが重なり軍部と国民と政府との歯車がかみ合っての勝利であった。
○ その歴史的勝利が太平洋戦争では一番の足枷となったことは事実である。
そして英雄となった東郷的精神論が太平洋戦争でもまかり通ってしまったことが敗戦の第一要件であった。日露戦争から40年弱、日本は戦争らしい戦争を体験していない。
○ 第一次世界大戦を体験した欧州は戦勝国も敗戦国も廃墟と化しました。明らかに日露戦争後の戦争は経済(物量)戦争的に変化した。
その事実を知っていたのは連合艦隊では山本五十六であろう。

○ 太平洋戦争においては日本海軍は、開戦劈頭、ハワイ真珠湾の敵主力艦隊を猛撃撃破し、アメリカ海軍とアメリカ国民を士気阻喪におとしめる作戦であった。しかしアメリカ空母は完全に無傷であった。またかえってアメリカは士気盛になって、日本海軍の作戦は効を奏しなかった。
○ 続いて行われたミッドウエイ作戦では、日本海軍は航空母艦4隻とその艦載機多数を一挙に喪失する大損害を受け制海権を失った。原因はアメリカに日本海軍の暗号が解読されていた事が大きい。
この敗北は国民にも、海軍内部でも極秘とされた。
○ 東郷と山本という正反対の2人の提督。時代が違えばきっと与えられた評価も大きく違ったであろう。

2018年7月23日月曜日

7月23日(月)午後 高洲プールで約40分泳ぎました。気温は36℃、水温は33℃。 気持ち良かった。

7月23日(月)午後 高洲プールで約40分泳ぎました。気温は36℃、水温は33℃。
気持ち良かった。

2018年7月22日日曜日

「別冊太陽 西行」を読む。 ○ 西行(1118~1190 享年73)は法皇に待する北面の武士であったが23歳で決然と世を捨て、和歌の道を突き進む。彼の孤独を生きる力にして詠んだ渾身の和歌は、乱世の無常を通じて、不滅の芸術となった。 この本は多くの西行の足跡ゆかりのカラー写真を掲載しているので楽しく西行を学べる。西行の足跡を見ると、彼は歩く歌人であったようだ。 新古今和歌集には西行の和歌が最も多く選ばれている。 ○ 西行は出家後は洛外に草庵を結んで修行につとめ、一品経(いっぽんきょう)を勧進して藤原頼長を訪ねたりしたが、1144年(天養1年)ころ陸奥、出羽に旅して歌枕を訪ね、1149年(久安5年)前後には高野山に隠筒してしばしば吉野山に入った。  その間和歌に精進し、1151年(仁平1年)には《詞花和歌集》に1首入集、多くの歌人と交わったが、崇徳院、徳大寺実能、同公能、藤原成通らの死によって、しだいに公家社会から遠ざかった。  ○ 1168年(仁安3年)には四国へ修行の旅に出、讃岐国の崇徳院の白峰陵にもうでて院の怨霊を鎮め、さらに弘法大師の旧跡を訪ねた。その後、高野山の蓮花乗院を造営するための勧進を行い、同院の長日談義をはじめるなど、高野山の興隆のために活動した。  1180年(治承4年)には伊勢国に赴き、二見浦に草庵を結んで、和歌を通じて祀官の荒木田氏などと交わった。  ○ 1186年(文治2年)、伊勢を出て東大寺再建の勧進のために再び陸奥に赴いたが、その途中鎌倉で源頼朝に会い、弓馬のことを談じ和歌についても語った。  陸奥の旅から帰った西行は、京都の嵯峨に住み、1188年に成立した《千載和歌集》には18首が選ばれて、歌人として重んぜられるようになったが、1189年、河内国の弘川寺に居を定め、翌1190年(建久1年)の2月16日、弘川寺で73歳の生涯を閉じた。 

「別冊太陽 西行」を読む。
○ 西行(1118~1190 享年73)は法皇に待する北面の武士であったが23歳で決然と世を捨て、和歌の道を突き進む。彼の孤独を生きる力にして詠んだ渾身の和歌は、乱世の無常を通じて、不滅の芸術となった。
この本は多くの西行の足跡ゆかりのカラー写真を掲載しているので楽しく西行を学べる。西行の足跡を見ると、彼は歩く歌人であったようだ。
新古今和歌集には西行の和歌が最も多く選ばれている。
○ 西行は出家後は洛外に草庵を結んで修行につとめ、一品経(いっぽんきょう)を勧進して藤原頼長を訪ねたりしたが、1144年(天養1年)ころ陸奥、出羽に旅して歌枕を訪ね、1149年(久安5年)前後には高野山に隠筒してしばしば吉野山に入った。 
その間和歌に精進し、1151年(仁平1年)には《詞花和歌集》に1首入集、多くの歌人と交わったが、崇徳院、徳大寺実能、同公能、藤原成通らの死によって、しだいに公家社会から遠ざかった。 
○ 1168年(仁安3年)には四国へ修行の旅に出、讃岐国の崇徳院の白峰陵にもうでて院の怨霊を鎮め、さらに弘法大師の旧跡を訪ねた。その後、高野山の蓮花乗院を造営するための勧進を行い、同院の長日談義をはじめるなど、高野山の興隆のために活動した。 
1180年(治承4年)には伊勢国に赴き、二見浦に草庵を結んで、和歌を通じて祀官の荒木田氏などと交わった。 
○ 1186年(文治2年)、伊勢を出て東大寺再建の勧進のために再び陸奥に赴いたが、その途中鎌倉で源頼朝に会い、弓馬のことを談じ和歌についても語った。 
陸奥の旅から帰った西行は、京都の嵯峨に住み、1188年に成立した《千載和歌集》には18首が選ばれて、歌人として重んぜられるようになったが、1189年、河内国の弘川寺に居を定め、翌1190年(建久1年)の2月16日、弘川寺で73歳の生涯を閉じた。 

7月22日NHK日曜美術館「縄文 “美”の発見」を見る。 ○ 日本の縄文土器の想像力、繊細な洗練さは世界に類を見ない。縄文土器は約1万年前に私たちの祖先が作った芸術である。 ○ 縄目の模様の縄文土器や人をかたどった土偶。そうした縄文時代の“美”が今、注目されている。縄文をテーマにした映画や本も出版され、国宝にも認められたその魅力を探る。 ○ この夏、東京国立博物館には縄文時代の国宝6件すべてが集結する。もともと土器や土偶などの出土品は、当時の文化や生活を知る研究資料として見られその美術的価値は見過ごされてきた。 ○ 芸術家・岡本太郎は「日本人の祖先の美意識だ」と激賞し、バブル時代の開発に伴う発掘調査で次々と貴重な出土品が発見され、ついに95年に「縄文のビーナス」と呼ばれる土偶が初めて国宝に認定された。その過程を追いながら縄文の美を味わう。

7月22日NHK日曜美術館「縄文 “美”の発見」を見る。
○ 日本の縄文土器の想像力、繊細な洗練さは世界に類を見ない。縄文土器は約1万年前に私たちの祖先が作った芸術である。
○ 縄目の模様の縄文土器や人をかたどった土偶。そうした縄文時代の“美”が今、注目されている。縄文をテーマにした映画や本も出版され、国宝にも認められたその魅力を探る。
○ この夏、東京国立博物館には縄文時代の国宝6件すべてが集結する。もともと土器や土偶などの出土品は、当時の文化や生活を知る研究資料として見られその美術的価値は見過ごされてきた。
○ 芸術家・岡本太郎は「日本人の祖先の美意識だ」と激賞し、バブル時代の開発に伴う発掘調査で次々と貴重な出土品が発見され、ついに95年に「縄文のビーナス」と呼ばれる土偶が初めて国宝に認定された。その過程を追いながら縄文の美を味わう。

「帝国軍人の反戦 木村邇典」を読む。 ○ 第一次世界大戦後、ヨーロッパの惨状を視察した水野広徳(最終階級は海軍大佐)は強硬な反戦論者となって軍職を去る。 ○ 陸軍省新聞班長として脚光を浴びる桜井忠温(最終階級は陸軍少将)は文人と陸軍に協力し太平洋戦争の激動に翻弄されていく。 ○ 水野広徳が海軍の異端児であったとすれば、桜井忠温は陸軍の優等生であった。 ○ 桜井は日露戦争における旅順戦で瀕死の重症を受ける。桜井は旅順戦の従軍記「肉弾」を書く。また乃木希典大将の斡旋で明治天皇に拝謁する。桜井は“軍人文士”の数奇な生涯を送る。 ○ この書は水野広徳、桜井忠温の対照的な生涯を描いている。偶然とはいえ、驚かされるのは、この二人が松山生まれで、しかも生家が近かったことである。 ○ 水野は優れた海軍軍人であったがゆえ、第二次世界大戦における日本の敗戦やその時期までも的確に予測した。彼はやがて軍からはじきだされ、彼の書いたものの多くは発禁処分を受ける。昭和二十年、日本の敗戦を見とどけ、亡くなる。 ○ 一方、筆のたつ桜井は言わば陸軍のスポークスマンとして随筆などを書きながら、陸軍省新聞班長になるが、戦後は公職追放されたのち、やがて解除され、最後は故郷の松山で長男夫婦とそれなりに幸せな生活を送り、昭和四十年に亡くなる。 現代人がこの二人の著作を読むことは殆どないであろう。しかし、二人の生き方に学ぶべきことはあるであろう。

「帝国軍人の反戦 木村邇典」を読む。
○ 第一次世界大戦後、ヨーロッパの惨状を視察した水野広徳(最終階級は海軍大佐)は強硬な反戦論者となって軍職を去る。
○ 陸軍省新聞班長として脚光を浴びる桜井忠温(最終階級は陸軍少将)は文人と陸軍に協力し太平洋戦争の激動に翻弄されていく。
○ 水野広徳が海軍の異端児であったとすれば、桜井忠温は陸軍の優等生であった。
○ 桜井は日露戦争における旅順戦で瀕死の重症を受ける。桜井は旅順戦の従軍記「肉弾」を書く。また乃木希典大将の斡旋で明治天皇に拝謁する。桜井は“軍人文士”の数奇な生涯を送る。
○ この書は水野広徳、桜井忠温の対照的な生涯を描いている。偶然とはいえ、驚かされるのは、この二人が松山生まれで、しかも生家が近かったことである。
○ 水野は優れた海軍軍人であったがゆえ、第二次世界大戦における日本の敗戦やその時期までも的確に予測した。彼はやがて軍からはじきだされ、彼の書いたものの多くは発禁処分を受ける。昭和二十年、日本の敗戦を見とどけ、亡くなる。
○ 一方、筆のたつ桜井は言わば陸軍のスポークスマンとして随筆などを書きながら、陸軍省新聞班長になるが、戦後は公職追放されたのち、やがて解除され、最後は故郷の松山で長男夫婦とそれなりに幸せな生活を送り、昭和四十年に亡くなる。
現代人がこの二人の著作を読むことは殆どないであろう。しかし、二人の生き方に学ぶべきことはあるであろう。

2018年7月21日土曜日

2018.7.21テレビ東京美の巨人たち放送900回・京都建築シリーズ③「京都タワー」を見る。 ○ 「美の巨人たち」7月は4週連続「放送900回記念・京都の建築シリーズ」3週目は京都駅前にそびえ立つ観光「京都タワー」。 ○ 反対論争の直接の発端となったのは、在日フランス人J・P・オーシュコルヌ氏(ノートルダム女子大講師)による高山京都市長あての抗議文であった。続いて建築家A・レーモンド氏が坂倉日本建築家協会会長に「日本の建築家は反対しないのか」との抗議文を提出する。最初の一声が外国人からあがるのは今も昔も変わらない。 ○ 丹下健三、川端康成、司馬遼太郎、谷崎潤一郎、土門拳も反対した。 ○ 私も京都タワーを評価しません撤去すべきです。 設計は日本武道館を手掛けた建築家・山田守。 その造りは実にユニーク!ビルの屋上に白い円筒形のタワーが乗る構造で、なんと鉄筋を使っていないのです。そんな事はどうでも良い。 一体どのように造ったのか、建設当時、大きな反対運動が起こったタワーが京都のシンボルになったと「テレビ東京」は言う。 ○ 残念ながら私は京都のシンボルとは思いません。 

2018.7.21テレビ東京美の巨人たち放送900回・京都建築シリーズ③「京都タワー」を見る。
○ 「美の巨人たち」7月は4週連続「放送900回記念・京都の建築シリーズ」3週目は京都駅前にそびえ立つ観光「京都タワー」。

○ 反対論争の直接の発端となったのは、在日フランス人J・P・オーシュコルヌ氏(ノートルダム女子大講師)による高山京都市長あての抗議文であった。続いて建築家A・レーモンド氏が坂倉日本建築家協会会長に「日本の建築家は反対しないのか」との抗議文を提出する。最初の一声が外国人からあがるのは今も昔も変わらない。
○ 丹下健三、川端康成、司馬遼太郎、谷崎潤一郎、土門拳も反対した。
○ 私も京都タワーを評価しません撤去すべきです。
設計は日本武道館を手掛けた建築家・山田守。
その造りは実にユニーク!ビルの屋上に白い円筒形のタワーが乗る構造で、なんと鉄筋を使っていないのです。そんな事はどうでも良い。
一体どのように造ったのか、建設当時、大きな反対運動が起こったタワーが京都のシンボルになったと「テレビ東京」は言う。
○ 残念ながら私は京都のシンボルとは思いません。 

7月21日高校時代からんの友人と 千葉市美術館「平塚運一 版画展」に行きました。 生涯、版画三昧!102歳まで生きた木版画のレジェンド待望の回顧展  平塚運一(明治28 ~平成9年/1895~1997 享年102歳)は、島根県松江市の宮大工の家に生まれました。 木材と彫刀に囲まれた環境で幼い頃から木版画に親しみ、大正2年(1913)の夏、松江で開催された洋画講習会で講師の石井柏亭と出会い、画家への憧れを募らせます。同4年に上京、柏亭から彫師伊上凡骨を紹介されて半年のあいだ内弟子となり、伝統的な彫版を身につけました。同じ頃に初期仏教版画を発見し、その素朴さや力強さに影響されながら自身のスタイルを築き、以後国画会と日本版画協会を主な舞台に活躍します。 自画・自刻・自摺を旨とする創作版画家たちのなかでも、ひときわ高く自在な技術から「木版画の神様」と称され、またよき指導者としても知られ、技法書や版画講習会を通じて彫り、摺ることの喜びを伝えて棟方志功ら多くの後進を育てたのでました。  その造形は、初期の温雅な多色摺から、昭和初年に始まる豪快な黒白の構成へと展開しました。戦後の昭和37年(1962)には67歳にしてアメリカに渡り、同地の風物を題材に新たな作風を開拓、さらに1970年代には裸婦を主題にみずみずしい一群を残しています。102歳で稀有な版画人としての生涯を閉じるまで、版業は実に80年に及びました。  本展は、寄託品に所蔵品をあわせた木版画約300点から平塚運一の仕事を回顧します。古代と現代を、そして東洋と西洋を架橋したといわれる強靭かつ華麗な作品世界を展示しています。

7月21日高校時代からんの友人と 千葉市美術館「平塚運一 版画展」に行きました。
生涯、版画三昧!102歳まで生きた木版画のレジェンド待望の回顧展
 平塚運一(明治28 ~平成9年/1895~1997 享年102歳)は、島根県松江市の宮大工の家に生まれました。
木材と彫刀に囲まれた環境で幼い頃から木版画に親しみ、大正2年(1913)の夏、松江で開催された洋画講習会で講師の石井柏亭と出会い、画家への憧れを募らせます。同4年に上京、柏亭から彫師伊上凡骨を紹介されて半年のあいだ内弟子となり、伝統的な彫版を身につけました。同じ頃に初期仏教版画を発見し、その素朴さや力強さに影響されながら自身のスタイルを築き、以後国画会と日本版画協会を主な舞台に活躍します。
自画・自刻・自摺を旨とする創作版画家たちのなかでも、ひときわ高く自在な技術から「木版画の神様」と称され、またよき指導者としても知られ、技法書や版画講習会を通じて彫り、摺ることの喜びを伝えて棟方志功ら多くの後進を育てたのでました。
 その造形は、初期の温雅な多色摺から、昭和初年に始まる豪快な黒白の構成へと展開しました。戦後の昭和37年(1962)には67歳にしてアメリカに渡り、同地の風物を題材に新たな作風を開拓、さらに1970年代には裸婦を主題にみずみずしい一群を残しています。102歳で稀有な版画人としての生涯を閉じるまで、版業は実に80年に及びました。
 本展は、寄託品に所蔵品をあわせた木版画約300点から平塚運一の仕事を回顧します。古代と現代を、そして東洋と西洋を架橋したといわれる強靭かつ華麗な作品世界を展示しています。