「昭和史 1926→1945 半藤一利」を読む。
○ 「昭和史」は、学校では殆ど授業されない。然らば自分で学ぶ必要がある。我々の不十分な「昭和史」の知識を体系づけた理解させる書である。私たちは昭和史の失敗を真摯に学ぶ事がなければ、亦同じ失敗に陥るだろう。
○ 戦争は大量殺人を前提として成立する。太平洋戦争では約350万人の日本人老若男女が犠牲になった。昭和史を読むと心が痛む。
○ 日本は1865年に開国し、懸命に富国強兵を進め40年後に近代国家を完成させた。その40年後の1945年に太平洋戦争に敗北し国家は壊滅した。
○ 昭和は戦争の歴史だが、そのキーはまずは満州(中国東北部)にある。満州は日本国防の最大の防衛線と宣伝され、資源の乏しい日本に魅力の鉄と石炭があり、日本人移民政策の約40~50万人の人口流出先であり、満州の権益を得て拡大していった。日本の失敗は全てここから出発した。
○ 本来陸海軍を統率する「統帥権」は天皇のみが行使できるものだ。それを陸海軍が欲しいままに乱用し、満州事変、ノモンハン事件、満州事変、支那事変、太平洋戦争へと進んでいった。
○ 強気一辺倒の軍部と、閉塞感が国を危なくした。陸海軍は困った事は無かった事にしよう。起きない事にしようと考えであった。。
○ 更に陸軍の昭和4年の張作霖爆殺事件、昭和5年のロンドン軍縮条約に対する海軍軍令部の反対は昭和の戦争への方向への2大事件だ。
そして陸海軍の常套手段「統帥権干犯」と言う自己の主張を持ち出す考え方が確立された。
○ 二二六事件の眼目は「皇居占拠計画」にあった。
○ 「ノモンハン事件」で最悪は関東軍参謀の服部卓四郎中佐と辻正信少佐。その後も二人は開戦直前に服部は参謀本部作戦課長、辻は戦力班長で復活した。
○ 日独伊三国同盟の成立で日本はアメリカを敵に回す事になった。
○ 「インパール作戦」で最悪は第十五軍牟田口廉也中将とビルマ方面軍河辺正三大将の補給無視の作戦である。
○ 海軍特攻隊は志願と言う事になっているが、拒否困難な状態に隊員を落とし入れた、半強制であった。
○ 日本の指導者は既に連合国に協調し敵になったソ連に終戦和平協力を願う。哀れな事だ。
○ 1945年8月14日本はポツダム宣言を受け入れ、連合国に無条件降伏し8月15日昭和天皇陛下戦争の玉音放送により日本人は戦争が終わった事を知った。
○ ソ連は終戦後、日本人約57万人を捕虜として拉致しシベリアの極寒の地で強制労働をせ、約10万人が死亡した。
2018年7月29日日曜日
「昭和史 1926→1945 半藤一利」を読む。 ○ 「昭和史」は、学校では殆ど授業されない。然らば自分で学ぶ必要がある。我々の不十分な「昭和史」の知識を体系づけた理解させる書である。私たちは昭和史の失敗を真摯に学ぶ事がなければ、亦同じ失敗に陥るだろう。 ○ 戦争は大量殺人を前提として成立する。太平洋戦争では約350万人の日本人老若男女が犠牲になった。昭和史を読むと心が痛む。 ○ 日本は1865年に開国し、懸命に富国強兵を進め40年後に近代国家を完成させた。その40年後の1945年に太平洋戦争に敗北し国家は壊滅した。 ○ 昭和は戦争の歴史だが、そのキーはまずは満州(中国東北部)にある。満州は日本国防の最大の防衛線と宣伝され、資源の乏しい日本に魅力の鉄と石炭があり、日本人移民政策の約40~50万人の人口流出先であり、満州の権益を得て拡大していった。日本の失敗は全てここから出発した。 ○ 本来陸海軍を統率する「統帥権」は天皇のみが行使できるものだ。それを陸海軍が欲しいままに乱用し、満州事変、ノモンハン事件、満州事変、支那事変、太平洋戦争へと進んでいった。 ○ 強気一辺倒の軍部と、閉塞感が国を危なくした。陸海軍は困った事は無かった事にしよう。起きない事にしようと考えであった。。 ○ 更に陸軍の昭和4年の張作霖爆殺事件、昭和5年のロンドン軍縮条約に対する海軍軍令部の反対は昭和の戦争への方向への2大事件だ。 そして陸海軍の常套手段「統帥権干犯」と言う自己の主張を持ち出す考え方が確立された。 ○ 二二六事件の眼目は「皇居占拠計画」にあった。 ○ 「ノモンハン事件」で最悪は関東軍参謀の服部卓四郎中佐と辻正信少佐。その後も二人は開戦直前に服部は参謀本部作戦課長、辻は戦力班長で復活した。 ○ 日独伊三国同盟の成立で日本はアメリカを敵に回す事になった。 ○ 「インパール作戦」で最悪は第十五軍牟田口廉也中将とビルマ方面軍河辺正三大将の補給無視の作戦である。 ○ 海軍特攻隊は志願と言う事になっているが、拒否困難な状態に隊員を落とし入れた、半強制であった。 ○ 日本の指導者は既に連合国に協調し敵になったソ連に終戦和平協力を願う。哀れな事だ。 ○ 1945年8月14日本はポツダム宣言を受け入れ、連合国に無条件降伏し8月15日昭和天皇陛下戦争の玉音放送により日本人は戦争が終わった事を知った。 ○ ソ連は終戦後、日本人約57万人を捕虜として拉致しシベリアの極寒の地で強制労働をせ、約10万人が死亡した。
7月25日TV東京美の巨人たち京都建築シリーズ④「三千院」 放送900回を迎えた「美の巨人たち」7月は4週連続「放送900回記念・京都の建築シリーズ」をお送りしています。 ○ 最後を飾るのは京都大原の里山にある「三千院」。 中でも最も有名で重要な場所は、国の重要文化財「往生極楽院」。 黄金に輝く国宝・阿弥陀三尊像のためのお堂です。座して2メートルを超す阿弥陀如来その頭上には外観からは想像もつかない世界が!それは阿弥陀如来が来迎する天空が描かれていた。その天空は宝物館に再生されている。その天空には亡者を極楽に迎える天女が描かれている。 ○ 阿弥陀如来、観音菩薩(聖観音)、勢至菩薩の三尊が西方極楽浄土から亡者を迎えに来る(来迎)形式の像で、両脇侍が日本式の正座をしている点が特色である。2002年に国宝に指定されている 脇侍の勢至菩薩像像内の銘文から平安時代末期の1148年(久安4年)の作とわかる。
7月25日TV東京美の巨人たち京都建築シリーズ④「三千院」
放送900回を迎えた「美の巨人たち」7月は4週連続「放送900回記念・京都の建築シリーズ」をお送りしています。
○ 最後を飾るのは京都大原の里山にある「三千院」。
中でも最も有名で重要な場所は、国の重要文化財「往生極楽院」。
黄金に輝く国宝・阿弥陀三尊像のためのお堂です。座して2メートルを超す阿弥陀如来その頭上には外観からは想像もつかない世界が!それは阿弥陀如来が来迎する天空が描かれていた。その天空は宝物館に再生されている。その天空には亡者を極楽に迎える天女が描かれている。
○ 阿弥陀如来、観音菩薩(聖観音)、勢至菩薩の三尊が西方極楽浄土から亡者を迎えに来る(来迎)形式の像で、両脇侍が日本式の正座をしている点が特色である。2002年に国宝に指定されている
脇侍の勢至菩薩像像内の銘文から平安時代末期の1148年(久安4年)の作とわかる。
2018年7月28日土曜日
「落第坊主の履歴書 遠藤周作」を読む。 遠藤周作さん遠藤 周作(1923 - 1996)は、日本の小説家。随筆や文芸評論や戯曲も手がけた方です。遠藤周作さんは芥川賞作家である。 ○ この本は遠藤周作さんの純文学作品とは違った、幼少時代からの自叙伝です。 色々な写真とともに遠藤周作さんの語りは口とても愉快です。狐狸庵シリーズのように、面白可笑しく書かれています。 ○ 友人達の付き合いでホロっとするようなエピソードもあり、何故か周囲には有名なお友達が沢山おられるのは人徳であろうか。 ○ 遠藤周作さんが、早世した兄上と違い勉強が苦手でぼんやりした頭の悪い子だったと随分謙遜して書かれています。 ○ 遠藤周作さんは東京で生まれ幼少の頃満州で育った。旧制灘中学校の学生だった時、カトリックの洗礼を受けクリスチャンになった。 ○ 狐狸庵先生などと称される愉快で小仙人的な世間一般の持つ印象とは異なり、実物の遠藤周作は、おしゃれで痩身長躯すらりとした体つき(戦後間もない時代に183cm)の作家であり、豪放磊落開放的な態度で一般とも接するのを常としておられました。
「落第坊主の履歴書 遠藤周作」を読む。
遠藤周作さん遠藤 周作(1923 - 1996)は、日本の小説家。随筆や文芸評論や戯曲も手がけた方です。遠藤周作さんは芥川賞作家である。
○ この本は遠藤周作さんの純文学作品とは違った、幼少時代からの自叙伝です。 色々な写真とともに遠藤周作さんの語りは口とても愉快です。狐狸庵シリーズのように、面白可笑しく書かれています。
○ 友人達の付き合いでホロっとするようなエピソードもあり、何故か周囲には有名なお友達が沢山おられるのは人徳であろうか。
○ 遠藤周作さんが、早世した兄上と違い勉強が苦手でぼんやりした頭の悪い子だったと随分謙遜して書かれています。
○ 遠藤周作さんは東京で生まれ幼少の頃満州で育った。旧制灘中学校の学生だった時、カトリックの洗礼を受けクリスチャンになった。
○ 狐狸庵先生などと称される愉快で小仙人的な世間一般の持つ印象とは異なり、実物の遠藤周作は、おしゃれで痩身長躯すらりとした体つき(戦後間もない時代に183cm)の作家であり、豪放磊落開放的な態度で一般とも接するのを常としておられました。
2018年7月27日金曜日
「おわらない音楽 小澤征爾」を読む。 ○ 小澤征爾さんが2014年1月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」が単行本となった。 ○ ≪どんな人たちに支えられてきたか。その恩人たちを紹介するのが僕の「履歴書」かもしれない。≫という巻頭の小澤征爾さんの言葉通り、小澤征爾さんのサクセス・ストーリーの陰には、決定的な場面で重要な役割を果たした様々な人々との出会いがあった。 これまた小澤征爾さんの誠実な人柄であろう。 ○ 両親、兄弟、成城の仲間たち。ピアノを教えた豊増昇を始め、特に重要な人物は桐朋学園の創始者のひとりで小澤征爾さんに指揮を教えた斎藤秀雄氏であることは自明である。 ○ 初めて海外へ渡航したとき援助してくれた実業界の人々、ブザンソン指揮者コンクール参加を助けてくれたアメリカ大使館員。師事した偉大な指揮者ミュンシュ、バーンスタイン、そしてカラヤン。 ○ 1962年N響の小澤征爾ボイコット事件で、彼が落ち込んでいた時三島由紀夫、浅利慶太、石原慎太郎、井上靖、團伊玖磨、黛敏郎、大江健三郎、一柳慧など錚々たる文化人たちが日比谷公会堂で「小澤征爾の音楽を聴く会」を開いてバックアップしてくれた。 ○ ラヴィニア音楽祭に紹介した敏腕マネージャーのウィルフォード。小澤を音楽監督に指名したトロント響、サンフランシスコ響、ボストン響のマネージャーや役員たち。 ○ 1992年、小澤征爾の兄貴分とも言えるムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(愛称スラヴァ)の進言でN響の指揮を取り正式の和解が成立した。 ○ サイトウ・キネン・オーケストラを支援したスポンサー会社。ウィーン国立歌劇場のホーレンダー総監督などなど。 中でも食道がんの闘病生活の支えとなった家族の力は大きい。これほど周囲の人々に恵まれた音楽家がほかにいるだろうか。 ○ 小澤征爾という音楽家の原点は人を引き寄せる魅力ある人間性であることを改めて実感した。 「おわらない音楽」というタイトルは、音楽の怖さ、難しさ、奥の深い魅力を暗示しているように思う。
「おわらない音楽 小澤征爾」を読む。
○ 小澤征爾さんが2014年1月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」が単行本となった。
○ ≪どんな人たちに支えられてきたか。その恩人たちを紹介するのが僕の「履歴書」かもしれない。≫という巻頭の小澤征爾さんの言葉通り、小澤征爾さんのサクセス・ストーリーの陰には、決定的な場面で重要な役割を果たした様々な人々との出会いがあった。
これまた小澤征爾さんの誠実な人柄であろう。
○ 両親、兄弟、成城の仲間たち。ピアノを教えた豊増昇を始め、特に重要な人物は桐朋学園の創始者のひとりで小澤征爾さんに指揮を教えた斎藤秀雄氏であることは自明である。
○ 初めて海外へ渡航したとき援助してくれた実業界の人々、ブザンソン指揮者コンクール参加を助けてくれたアメリカ大使館員。師事した偉大な指揮者ミュンシュ、バーンスタイン、そしてカラヤン。
○ 1962年N響の小澤征爾ボイコット事件で、彼が落ち込んでいた時三島由紀夫、浅利慶太、石原慎太郎、井上靖、團伊玖磨、黛敏郎、大江健三郎、一柳慧など錚々たる文化人たちが日比谷公会堂で「小澤征爾の音楽を聴く会」を開いてバックアップしてくれた。
○ ラヴィニア音楽祭に紹介した敏腕マネージャーのウィルフォード。小澤を音楽監督に指名したトロント響、サンフランシスコ響、ボストン響のマネージャーや役員たち。
○ 1992年、小澤征爾の兄貴分とも言えるムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(愛称スラヴァ)の進言でN響の指揮を取り正式の和解が成立した。
○ サイトウ・キネン・オーケストラを支援したスポンサー会社。ウィーン国立歌劇場のホーレンダー総監督などなど。
中でも食道がんの闘病生活の支えとなった家族の力は大きい。これほど周囲の人々に恵まれた音楽家がほかにいるだろうか。
○ 小澤征爾という音楽家の原点は人を引き寄せる魅力ある人間性であることを改めて実感した。
「おわらない音楽」というタイトルは、音楽の怖さ、難しさ、奥の深い魅力を暗示しているように思う。
「桂米朝 私の履歴書」を読む。 上方落語の復興に尽力し、1996年に人間国宝、2009年に文化勲章を授章した桂米朝師匠(1925-2015 享年89歳)の自伝である。元々、日本経済新聞の「私の履歴書」として平成13年に連載されたものを元に原稿用紙百数十枚分を書き足して作成された。 ○ 落語作家小佐田定雄さんの言葉「米朝と言う人は上方落語を復興するために天から遣わされたのではないか。」 ○ 柔らかで品のある語り口を反映した文章で、読んでいてどこか爽やかな印象を受ける。 ○ 第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興への功績から「上方落語中興の祖」と言われる。 ○ 1950年に五代目笑福亭松鶴が死去。師匠の桂米団治も1951年に死去。さらに立花家花橘、二代目林家染丸、二代目桂春団治も死去。元々細々と継承され人気でも漫才に押され気味だった上方落語は、今度こそ滅んだと言われた。 ○ そんな中、米朝は発奮する。「宝塚落語会」の発足。民間放送の普及に乗ってトーク役で起用され、知名度と人気を得る。「上方落語会」の結成。朝日放送との専属契約。上方落語復興の努力とネタの復活。「珍しい上方落語を聴く会」や雑誌「上方風流」。東京新宿紀伊国屋ホールで独演会。大作「地獄八景亡者戯」。サンケイホール独演会。各地で満員の観客を集め、とうとうオーケストラの指揮者にまで引っ張り出される感激の物語です。
「桂米朝 私の履歴書」を読む。
上方落語の復興に尽力し、1996年に人間国宝、2009年に文化勲章を授章した桂米朝師匠(1925-2015 享年89歳)の自伝である。元々、日本経済新聞の「私の履歴書」として平成13年に連載されたものを元に原稿用紙百数十枚分を書き足して作成された。
○ 落語作家小佐田定雄さんの言葉「米朝と言う人は上方落語を復興するために天から遣わされたのではないか。」
○ 柔らかで品のある語り口を反映した文章で、読んでいてどこか爽やかな印象を受ける。
○ 第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興への功績から「上方落語中興の祖」と言われる。
○ 1950年に五代目笑福亭松鶴が死去。師匠の桂米団治も1951年に死去。さらに立花家花橘、二代目林家染丸、二代目桂春団治も死去。元々細々と継承され人気でも漫才に押され気味だった上方落語は、今度こそ滅んだと言われた。
○ そんな中、米朝は発奮する。「宝塚落語会」の発足。民間放送の普及に乗ってトーク役で起用され、知名度と人気を得る。「上方落語会」の結成。朝日放送との専属契約。上方落語復興の努力とネタの復活。「珍しい上方落語を聴く会」や雑誌「上方風流」。東京新宿紀伊国屋ホールで独演会。大作「地獄八景亡者戯」。サンケイホール独演会。各地で満員の観客を集め、とうとうオーケストラの指揮者にまで引っ張り出される感激の物語です。
7月26日NHKプレミアム英雄たちの選択琉球スペシャル第2弾「▽辺境の声を聞け!探検家・笹森儀助の挑戦」を見る。 ○ 私は今まで笹森儀助については何も知りませんでした。今回良い勉強になりました。 ○ 明治12年琉球藩は廃止され、沖縄県が誕生する。しかし、人々は、重い税と風土病に苦しんでいた。探検家・笹森儀助(1845~1915)は、沖縄の島々をめぐり、その窮状を世に訴えた。 ○ 笹森の報告は日本の近代化の意味を問う大きなインパクトを与えた。 探検家・笹森儀助は、青森県弘前の士族の家に生まれた。日本中を旅行し、北海道の千島探検の記録を出版して、天皇に奏上されるほど評価を得た。 日本各地を調査旅行をし、鹿児島県で西郷隆盛の墓に参り、西郷の私利私欲を捨てる態度に共感する。 これを契機に、時の内務大臣から、沖縄の調査を依頼され、沖縄探検に出発する。 ○ ハブとマラリアの地への決死の思いの旅だった。ところが、現地で、笹森が眼にしたものは、厳しい自然だけでなく、人頭税、という重い税に苦しむ人々の姿だった。 ○ 笹森と沖縄県代表者により先島、沖縄の人頭税が内務大臣・井上馨に訴え出られ、世論の後押しも受け第8回帝国議会において1903年(明治36年)廃止、日本本土と同様の地租に切り替えられた。 ○ その後笹森は奄美大島の島司に就任する。島司としては、糖業の振興と、島民が持っていた負債の償却に多く力を注いだが、業績の中で「最も快挙とすべき」と評されている
7月26日NHKプレミアム英雄たちの選択琉球スペシャル第2弾「▽辺境の声を聞け!探検家・笹森儀助の挑戦」を見る。
○ 私は今まで笹森儀助については何も知りませんでした。今回良い勉強になりました。
○ 明治12年琉球藩は廃止され、沖縄県が誕生する。しかし、人々は、重い税と風土病に苦しんでいた。探検家・笹森儀助(1845~1915)は、沖縄の島々をめぐり、その窮状を世に訴えた。
○ 笹森の報告は日本の近代化の意味を問う大きなインパクトを与えた。
探検家・笹森儀助は、青森県弘前の士族の家に生まれた。日本中を旅行し、北海道の千島探検の記録を出版して、天皇に奏上されるほど評価を得た。
日本各地を調査旅行をし、鹿児島県で西郷隆盛の墓に参り、西郷の私利私欲を捨てる態度に共感する。
これを契機に、時の内務大臣から、沖縄の調査を依頼され、沖縄探検に出発する。
○ ハブとマラリアの地への決死の思いの旅だった。ところが、現地で、笹森が眼にしたものは、厳しい自然だけでなく、人頭税、という重い税に苦しむ人々の姿だった。
○ 笹森と沖縄県代表者により先島、沖縄の人頭税が内務大臣・井上馨に訴え出られ、世論の後押しも受け第8回帝国議会において1903年(明治36年)廃止、日本本土と同様の地租に切り替えられた。
○ その後笹森は奄美大島の島司に就任する。島司としては、糖業の振興と、島民が持っていた負債の償却に多く力を注いだが、業績の中で「最も快挙とすべき」と評されている