2018年10月2日火曜日

「日本の神々 谷川健一」を読む。 昭和初期、時局の先棒担ぎ、国策の尻馬に乗った国家神道が、日本の神々の本来の姿でなかった事は敗戦の手痛い教訓が証明している。 著者はこれら神々の運命を辿りつつ人々の暮らしの原像に迫る。 ○ 著者は、戦時中の狂熱的な神がかりを最も嫌悪し忌避するが、戦後になって日本の神の発見を志した。著者は民族学を通して日本人の信仰の原型を追及する。 著者はこれら神々の運命を辿りつつ人々の暮らしの原像に迫る。 ○ 日本の神の源流を辿ると、西洋(一神教)の神のように、意思を持ち人格を備えた存在から遠い。 ○ かつて日本列島に住みなした人々は、風も樹も山もすべて「可畏(かしこ)きもの」をカミと考えた。 すなわち災いをもたらすものも、稔りや大漁をもたらすものも、およそ人の力の及ぶべくもないすべての自然が畏怖の対象であったのだ。 やがてこれらの神々は天つ神に駆逐され、流竄(るざん)の姿となっていく。

「日本の神々 谷川健一」を読む。
昭和初期、時局の先棒担ぎ、国策の尻馬に乗った国家神道が、日本の神々の本来の姿でなかった事は敗戦の手痛い教訓が証明している。
著者はこれら神々の運命を辿りつつ人々の暮らしの原像に迫る。
○ 著者は、戦時中の狂熱的な神がかりを最も嫌悪し忌避するが、戦後になって日本の神の発見を志した。著者は民族学を通して日本人の信仰の原型を追及する。
著者はこれら神々の運命を辿りつつ人々の暮らしの原像に迫る。
○ 日本の神の源流を辿ると、西洋(一神教)の神のように、意思を持ち人格を備えた存在から遠い。
○ かつて日本列島に住みなした人々は、風も樹も山もすべて「可畏(かしこ)きもの」をカミと考えた。
すなわち災いをもたらすものも、稔りや大漁をもたらすものも、およそ人の力の及ぶべくもないすべての自然が畏怖の対象であったのだ。
やがてこれらの神々は天つ神に駆逐され、流竄(るざん)の姿となっていく。

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