「梁塵秘抄信仰と愛欲の歌謡 秦恒平」を読む。
後白河法皇によって集成された今様集『梁塵秘抄』は、中世の歌謡曲集。古代女文化と中世男文化が混じり合い沸騰する平安末期に、民衆の間に流行し、世俗の諸相が息づく。言語表現など歴史資料的にも貴重な書だ。後白河法王は偉大なる今様(歌謡)伝承者だ。
皇室が日本文化の保護に努められた事は誰でも知っている事だ。後白河法王(1127年10月18日 - 1192年4月26日)は平安時代最後皇室を支えられた有力政治家である。
しかしながら今様(歌謡)を愛好され「梁塵秘抄」を保護するなど文化的にも大きな足跡を残された。
後白河法皇は少年のときより、今様と呼ばれる歌謡を好んだ。法王30歳代の時70歳代の「乙前」言う女歌謡演芸の上手を宮中に召し、多くの歌謡を学んだ。今様は踊りながら歌う。法王も宮中でそのように「今様」を踊りながら歌われた。死後それらが伝わらなくなることを惜しみ、書き留めて本にした。また、歌謡の歴史などについて、別に口伝集十巻を残された。
書名の「梁塵」は、名人の歌で梁の塵も動いたという故事より、すぐれた歌のことを言う。
「梁塵秘抄」の例
「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。」
「舞え舞え蝸牛、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴させてん、踏破せてん、真に美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん。」
「東屋(あづまや)の妻とも終(つい)に成らざりけるもの故に、何とてむねを合せ初めけむ。」
「仏は常にいませども、現(うつつ)ならぬぞあわれなる、人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見え給ふ。」
2016年1月11日月曜日
「梁塵秘抄信仰と愛欲の歌謡 秦恒平」を読む。 後白河法皇によって集成された今様集『梁塵秘抄』は、中世の歌謡曲集。古代女文化と中世男文化が混じり合い沸騰する平安末期に、民衆の間に流行し、世俗の諸相が息づく。言語表現など歴史資料的にも貴重な書だ。後白河法王は偉大なる今様(歌謡)伝承者だ。 皇室が日本文化の保護に努められた事は誰でも知っている事だ。後白河法王(1127年10月18日 - 1192年4月26日)は平安時代最後皇室を支えられた有力政治家である。 しかしながら今様(歌謡)を愛好され「梁塵秘抄」を保護するなど文化的にも大きな足跡を残された。 後白河法皇は少年のときより、今様と呼ばれる歌謡を好んだ。法王30歳代の時70歳代の「乙前」言う女歌謡演芸の上手を宮中に召し、多くの歌謡を学んだ。今様は踊りながら歌う。法王も宮中でそのように「今様」を踊りながら歌われた。死後それらが伝わらなくなることを惜しみ、書き留めて本にした。また、歌謡の歴史などについて、別に口伝集十巻を残された。 書名の「梁塵」は、名人の歌で梁の塵も動いたという故事より、すぐれた歌のことを言う。 「梁塵秘抄」の例 「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。」 「舞え舞え蝸牛、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴させてん、踏破せてん、真に美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん。」 「東屋(あづまや)の妻とも終(つい)に成らざりけるもの故に、何とてむねを合せ初めけむ。」 「仏は常にいませども、現(うつつ)ならぬぞあわれなる、人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見え給ふ。」
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