2016年4月6日水曜日

『キリスト教と戦争 「愛と平和」を説きつつ戦う論理 石川明人 著』を読む。 ○イエスは彼(ペテロ)に言われた、「あなたに言いますが、七回までではなく、七十七回まで(心から謝罪するなら無制限に許す意味)許しなさい」 私は思う。戦争を肯定する人は本当のキリスト教徒でない。何故なら戦争は殺戮であり憎しみだ。 ○世界最大の宗教、キリスト教の信者は、なぜ「愛と平和」を祈りつつ「戦争」ができるのか。 殺人や暴力は禁止されているのではなかったか。  本書では、聖書の記述や、アウグスティヌス、ルターなど著名な神学者たちの言葉を紹介しながら、キリスト教徒がどのように武力行使を正当化するのかについて見ていく。平和を祈る宗教と戦争との奇妙な関係は、人間が普遍的に抱える痛切な矛盾を私たちに突きつけるであろう。 ○平和を唱えて戦う論理  キリスト教は隣人愛や平和を説いているのに、キリスト教国はなぜこれほど戦争と殺さつ戮りくを繰り返してきたのか。この問いはよく耳にするが、適切な答えはほとんど耳にしない。そうなると、歴史と聖書をしっかりと紐ひも解くしかない。本書はそういう素朴で誠実な試みである。 ○ まず、カトリックである。その長い歴史の中で、カトリックは正戦論を展開し、正当防衛を容認、軍人や従軍チャプレン(聖職者)の役割も評価してきた。それに対し、日本のカトリック教会はこれらに全く言及せず、軍事や戦争を一切否定する「素朴な姿勢で貫かれている」と、著者は指摘する。そもそも、カトリック教会の司教制度はローマ帝国の属州制度を応用したものだったという。精神を重視する教会と軍隊という組織には類似性が多いのである。日本に福音を伝えた者の多くも軍人や元軍人であった。  プロテスタントもしばしば武器をとって戦ったし、マルチン・ルターは絶対平和主義者でも非暴力主義者でもない。20世紀プロテスタント神学を代表するラインホルド・ニーバーもカール・バルトも必ずしも戦争を否定していない。 ○ 聖書はどうか。旧約聖書で「平和」を意味するヘブライ語の「シャローム」は、戦いに勝つことでえられる「平和」も含意しているという。新約聖書には戦争に関する具体的な記述はなく、人々は恣意しい的に聖書の記述を選択し、個人の主張を正当化する。聖書は「それぞれの人生と重ね合わせて読まれる書物」なのである。 ○ キリスト教がきわめて「平和主義的」であったなら、すでに絶滅しているか弱小セクトにとどまっていただろうと、著者は説く。キリスト教が真理である故に世界に広まったと考えるのは「傲慢」ですらある。しかも、およそ宗教は平和をめざすがために、混乱や不調和を封じ込める能力を強調せざるをえず、戦争や暴力は常に宗教的想像力の一部をなす。

『キリスト教と戦争 「愛と平和」を説きつつ戦う論理   石川明人 著』を読む。
○イエスは彼(ペテロ)に言われた、「あなたに言いますが、七回までではなく、七十七回まで(心から謝罪するなら無制限に許す意味)許しなさい」
私は思う。戦争を肯定する人は本当のキリスト教徒でない。何故なら戦争は殺戮であり憎しみだ。
○世界最大の宗教、キリスト教の信者は、なぜ「愛と平和」を祈りつつ「戦争」ができるのか。 殺人や暴力は禁止されているのではなかったか。
 本書では、聖書の記述や、アウグスティヌス、ルターなど著名な神学者たちの言葉を紹介しながら、キリスト教徒がどのように武力行使を正当化するのかについて見ていく。平和を祈る宗教と戦争との奇妙な関係は、人間が普遍的に抱える痛切な矛盾を私たちに突きつけるであろう。
○平和を唱えて戦う論理
 キリスト教は隣人愛や平和を説いているのに、キリスト教国はなぜこれほど戦争と殺さつ戮りくを繰り返してきたのか。この問いはよく耳にするが、適切な答えはほとんど耳にしない。そうなると、歴史と聖書をしっかりと紐ひも解くしかない。本書はそういう素朴で誠実な試みである。
○ まず、カトリックである。その長い歴史の中で、カトリックは正戦論を展開し、正当防衛を容認、軍人や従軍チャプレン(聖職者)の役割も評価してきた。それに対し、日本のカトリック教会はこれらに全く言及せず、軍事や戦争を一切否定する「素朴な姿勢で貫かれている」と、著者は指摘する。そもそも、カトリック教会の司教制度はローマ帝国の属州制度を応用したものだったという。精神を重視する教会と軍隊という組織には類似性が多いのである。日本に福音を伝えた者の多くも軍人や元軍人であった。
 プロテスタントもしばしば武器をとって戦ったし、マルチン・ルターは絶対平和主義者でも非暴力主義者でもない。20世紀プロテスタント神学を代表するラインホルド・ニーバーもカール・バルトも必ずしも戦争を否定していない。
○ 聖書はどうか。旧約聖書で「平和」を意味するヘブライ語の「シャローム」は、戦いに勝つことでえられる「平和」も含意しているという。新約聖書には戦争に関する具体的な記述はなく、人々は恣意しい的に聖書の記述を選択し、個人の主張を正当化する。聖書は「それぞれの人生と重ね合わせて読まれる書物」なのである。
○ キリスト教がきわめて「平和主義的」であったなら、すでに絶滅しているか弱小セクトにとどまっていただろうと、著者は説く。キリスト教が真理である故に世界に広まったと考えるのは「傲慢」ですらある。しかも、およそ宗教は平和をめざすがために、混乱や不調和を封じ込める能力を強調せざるをえず、戦争や暴力は常に宗教的想像力の一部をなす。

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