「私の履歴書 兄弟がいて 樫尾忠雄」を読む。
樫尾忠雄氏(1917-1993)は夜学に通いながら旋盤工見習いとして働いた。その後弟たちの助力で会社を設立した。会社存亡の危機が何度もあった。生き残りを賭けた激烈な電卓戦争を経て遂にハイテク企業・カシオ計算機を創り上げた。
カシオ計算機の社是はただ一つ「創造貢献」(創造して社会貢献)だ。
東京都三鷹市に「樫尾製作所」を開いた長男・忠雄氏を支えようと、次男、三男、四男が集まったのが始まり。以来、彼らは「樫尾四兄弟」と呼ばれ、それぞれの個性を生かした分業体制で組織を牽引し、小さな町工場を売上高3000億円超の企業へと成長させた。
○ 恥ずかしながら私も小さな鉄工所で昼間は旋盤工として油まみれで働き、夜学で学んだ。樫尾製作所製の電動計算機を使った事があった。
2016年10月22日土曜日
「私の履歴書 兄弟がいて 樫尾忠雄」を読む。 樫尾忠雄氏(1917-1993)は夜学に通いながら旋盤工見習いとして働いた。その後弟たちの助力で会社を設立した。会社存亡の危機が何度もあった。生き残りを賭けた激烈な電卓戦争を経て遂にハイテク企業・カシオ計算機を創り上げた。 カシオ計算機の社是はただ一つ「創造貢献」(創造して社会貢献)だ。 東京都三鷹市に「樫尾製作所」を開いた長男・忠雄氏を支えようと、次男、三男、四男が集まったのが始まり。以来、彼らは「樫尾四兄弟」と呼ばれ、それぞれの個性を生かした分業体制で組織を牽引し、小さな町工場を売上高3000億円超の企業へと成長させた。 ○ 恥ずかしながら私も小さな鉄工所で昼間は旋盤工として油まみれで働き、夜学で学んだ。樫尾製作所製の電動計算機を使った事があった。
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