『「歌」の精神史 山折哲雄』を読む。う~む。なる程、さも有りなん。
近年母親が子守唄を歌うのを聞かなくなった。新聞の短歌欄を見ても散文的になり叙情が枯渇している。美空ひばりの「川の流れのように」は鴨長明の「方丈記」の冒頭を思わせると述べる。また演歌の叙情性を評価する。
「平家物語」は琵琶法師が琵琶の調べで歌った物語だ。それを聞いた事のない国文学者が得意げに評論するのは失礼だ。
いま、叙情が危ない。われわれの心の世界が乾き上がり、砂漠化しているのではないか。叙情を受け容れる器が損傷し、水漏れをおこしているからではないか。叙情とは、万葉以来の生命のリズムのことだ。魂の躍動をうながし、日常の言葉を詩の形に結晶させる泉のことだ。それが枯渇し危機に瀕しているのは、時代が平板な散文世界に埋没してしまっているからである。歌の調べが衰弱し、その固有のリズムを喪失しているからだ。いまこそ、「歌」の精神を取り戻すときではないか。
2015年12月26日土曜日
『「歌」の精神史 山折哲雄』を読む。う~む。なる程、さも有りなん。 近年母親が子守唄を歌うのを聞かなくなった。新聞の短歌欄を見ても散文的になり叙情が枯渇している。美空ひばりの「川の流れのように」は鴨長明の「方丈記」の冒頭を思わせると述べる。また演歌の叙情性を評価する。 「平家物語」は琵琶法師が琵琶の調べで歌った物語だ。それを聞いた事のない国文学者が得意げに評論するのは失礼だ。 いま、叙情が危ない。われわれの心の世界が乾き上がり、砂漠化しているのではないか。叙情を受け容れる器が損傷し、水漏れをおこしているからではないか。叙情とは、万葉以来の生命のリズムのことだ。魂の躍動をうながし、日常の言葉を詩の形に結晶させる泉のことだ。それが枯渇し危機に瀕しているのは、時代が平板な散文世界に埋没してしまっているからである。歌の調べが衰弱し、その固有のリズムを喪失しているからだ。いまこそ、「歌」の精神を取り戻すときではないか。
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