大坂冬の陣で、豊臣秀頼を裏切り徳川方についた武将の片桐且元が西本願寺宗主(門主)に和睦の交渉経過を知らせた書状が見つかった。龍谷大学大宮図書館(京都市下京区)が9月30日、発表した。且元の書いた書状は和睦が近く成立する見込みであることをリアルタイムに伝えた貴重な資料だという。
○ 且元は慶長18年に秀頼から一万石を加増された際に徳川家を憚りこれを辞退したが、家康の命により拝領している。このように且元は豊臣家の家臣でありながら家康の家臣でもあることとなった。また且元は秀頼に「秀頼の駿府と江戸への参勤」、「淀殿を江戸詰め(人質)とする」、「秀頼が大坂城を出て他国に移る」の中からひとつを早急に選ぶことを提案するが、秀頼、淀君の怒りを受け大坂城を放逐される。
○ 豊臣家が且元を処分しようとしたことは家康に大坂城攻略の口実を与えることになった。徳川家康は如何にしても豊臣秀頼を討伐したかった。
家康はこの件を根拠にして諸大名に出兵を命じ、大坂の陣が勃発している。
片桐且元は大坂夏の陣では大坂城を攻撃して、豊臣秀頼は自害した。
以後片桐且元の直系の子孫は途切れるが、弟である片桐貞隆の子孫は徳川家旗本として明治まで続く。
2016年10月1日土曜日
大坂冬の陣で、豊臣秀頼を裏切り徳川方についた武将の片桐且元が西本願寺宗主(門主)に和睦の交渉経過を知らせた書状が見つかった。龍谷大学大宮図書館(京都市下京区)が9月30日、発表した。且元の書いた書状は和睦が近く成立する見込みであることをリアルタイムに伝えた貴重な資料だという。 ○ 且元は慶長18年に秀頼から一万石を加増された際に徳川家を憚りこれを辞退したが、家康の命により拝領している。このように且元は豊臣家の家臣でありながら家康の家臣でもあることとなった。また且元は秀頼に「秀頼の駿府と江戸への参勤」、「淀殿を江戸詰め(人質)とする」、「秀頼が大坂城を出て他国に移る」の中からひとつを早急に選ぶことを提案するが、秀頼、淀君の怒りを受け大坂城を放逐される。 ○ 豊臣家が且元を処分しようとしたことは家康に大坂城攻略の口実を与えることになった。徳川家康は如何にしても豊臣秀頼を討伐したかった。 家康はこの件を根拠にして諸大名に出兵を命じ、大坂の陣が勃発している。 片桐且元は大坂夏の陣では大坂城を攻撃して、豊臣秀頼は自害した。 以後片桐且元の直系の子孫は途切れるが、弟である片桐貞隆の子孫は徳川家旗本として明治まで続く。
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