2016年3月8日火曜日

「評伝 石川啄木」を著述したドナルド・キーン先生が石川啄木を語る。 「我に似し友の二人よ一人は死に一人は牢を出でて今病む 石川啄木」 石川啄木は哀しい人生だった。その短歌は私たちの心を打つ。  文芸誌『新潮』に1年半連載された評伝「石川啄木」が、発売中の10月号をもって完結し単行本として発行される。 筆者のドナルド・キーン米コロンビア大名誉教授は御年93歳。これまで多くの解釈・鑑賞がなされてきた天才歌人を、日本文学の泰斗(たいと)が90歳を過ぎてなぜ着目したのか。その動機や心境を聞いた。  「60年以上前、米国で英訳されていた日本の詩歌で『一番』と思ったのが啄木でした。京都大にその後留学し、桑原武夫教授に『ローマ字日記』を教えられて読んだら、また驚かされたのです」  キーン氏は日本で古くから独自の発展を遂げた日記文学を高く評価する。 キーン氏は日本人の日記に、深い思いを抱いていた。米海軍語学士官時代、太平洋戦争の激戦地ガダルカナルで戦死した日本兵の日記を解読した際、その「肉声」の力に感じ入った経験があった。  啄木が残した他の日記や手紙、評論などを読み進め、京都時代の1955年3月、『文藝』臨時増刊号に最初の論文を発表。その後幾度も論じてきたが、放埒(ほうらつ)な日常を繰り返し26歳で夭折(ようせつ)した若者がなぜ気高い思想と芸術を獲得できたのか、という疑問は解けないままだった。戦後、多くの啄木研究書や伝記が相次いで出た。しかし、キーン氏を納得させるものはなかった。「私は啄木を大好きですが、あまりに聖人と化しています。これまでの書物には遠慮があります。天才は時に人を傷つけます。私はなるべく事実を書きたいと思いました」  キーン氏は積年の思いを解き放つように執筆は連日、深夜まで及んだ。その筆は、啄木の妻節子と義弟・宮崎郁雨との間に生じた「不愉快な事件」にも鋭く言及。従来の研究で無視されてきた節子の「不貞」説を支持し、結果的に<啄木の作家としての経歴に終止符が打たれることになったと踏み込んだ。  明治最後の年の4月13日、啄木は貧困と病苦の中で死んだ。名声が高まるには、30年以上待たねばならなかった。啄木の墓は今、北海道・函館の大森浜にあり、海を一望する立待岬に啄木は眠る。

「評伝 石川啄木」を著述したドナルド・キーン先生が石川啄木を語る。
「我に似し友の二人よ一人は死に一人は牢を出でて今病む  石川啄木」
石川啄木は哀しい人生だった。その短歌は私たちの心を打つ。
 文芸誌『新潮』に1年半連載された評伝「石川啄木」が、発売中の10月号をもって完結し単行本として発行される。
筆者のドナルド・キーン米コロンビア大名誉教授は御年93歳。これまで多くの解釈・鑑賞がなされてきた天才歌人を、日本文学の泰斗(たいと)が90歳を過ぎてなぜ着目したのか。その動機や心境を聞いた。
 「60年以上前、米国で英訳されていた日本の詩歌で『一番』と思ったのが啄木でした。京都大にその後留学し、桑原武夫教授に『ローマ字日記』を教えられて読んだら、また驚かされたのです」
 キーン氏は日本で古くから独自の発展を遂げた日記文学を高く評価する。
キーン氏は日本人の日記に、深い思いを抱いていた。米海軍語学士官時代、太平洋戦争の激戦地ガダルカナルで戦死した日本兵の日記を解読した際、その「肉声」の力に感じ入った経験があった。
 啄木が残した他の日記や手紙、評論などを読み進め、京都時代の1955年3月、『文藝』臨時増刊号に最初の論文を発表。その後幾度も論じてきたが、放埒(ほうらつ)な日常を繰り返し26歳で夭折(ようせつ)した若者がなぜ気高い思想と芸術を獲得できたのか、という疑問は解けないままだった。戦後、多くの啄木研究書や伝記が相次いで出た。しかし、キーン氏を納得させるものはなかった。「私は啄木を大好きですが、あまりに聖人と化しています。これまでの書物には遠慮があります。天才は時に人を傷つけます。私はなるべく事実を書きたいと思いました」
 キーン氏は積年の思いを解き放つように執筆は連日、深夜まで及んだ。その筆は、啄木の妻節子と義弟・宮崎郁雨との間に生じた「不愉快な事件」にも鋭く言及。従来の研究で無視されてきた節子の「不貞」説を支持し、結果的に<啄木の作家としての経歴に終止符が打たれることになったと踏み込んだ。
 明治最後の年の4月13日、啄木は貧困と病苦の中で死んだ。名声が高まるには、30年以上待たねばならなかった。啄木の墓は今、北海道・函館の大森浜にあり、海を一望する立待岬に啄木は眠る。2015年4月に墓参したキーン氏が一つだけ後悔することがあるという。記憶力が自慢で、自身の日記をつけなかったことである。「年を取って忘れることを覚えました」と笑った。

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