赤穂浪士の吉良邸討ち入り元禄15年12月14日(1702年1月)だ。
○ 吉良上野介邸の周囲の屋敷は赤穂浪士堀部安兵衛に親しい新発田藩溝口宣就(のぶなり)の親類ばかりで、吉良上野介にとって「四面楚歌」の状況だった。
○ 元禄14年(1701)3月14日の浅野内匠頭による「刃傷事件」から約5カ月後の元禄14年8月には、幕府から吉良上野介に、現在の東京都墨田区両国3丁目への屋敷替えの命令が出た。
○ 堀部安兵衛は吉良上野介転居の当日、大石内蔵助に宛てた手紙で、吉良の転居先の地名を報告した。
○ 溝口宣就は大名を監督する幕府の「大目付」という要職におり、堀部安兵衛が刃傷事件直後に父の友人にあだ討ちへの思いをしたためた手紙に「溝口宣就の屋敷に行って心の内を打ち明けたい」という趣旨の記述があったことから、新潟大学冨沢名誉教授は「吉良上野介の転居先は溝口宣就から安兵衛に伝わったのではないか」と論考した。
2016年12月13日火曜日
赤穂浪士の吉良邸討ち入り元禄15年12月14日(1702年1月)だ。 ○ 吉良上野介邸の周囲の屋敷は赤穂浪士堀部安兵衛に親しい新発田藩溝口宣就(のぶなり)の親類ばかりで、吉良上野介にとって「四面楚歌」の状況だった。 ○ 元禄14年(1701)3月14日の浅野内匠頭による「刃傷事件」から約5カ月後の元禄14年8月には、幕府から吉良上野介に、現在の東京都墨田区両国3丁目への屋敷替えの命令が出た。 ○ 堀部安兵衛は吉良上野介転居の当日、大石内蔵助に宛てた手紙で、吉良の転居先の地名を報告した。 ○ 溝口宣就は大名を監督する幕府の「大目付」という要職におり、堀部安兵衛が刃傷事件直後に父の友人にあだ討ちへの思いをしたためた手紙に「溝口宣就の屋敷に行って心の内を打ち明けたい」という趣旨の記述があったことから、新潟大学冨沢名誉教授は「吉良上野介の転居先は溝口宣就から安兵衛に伝わったのではないか」と論考した。
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