2018年6月30日土曜日

「いわさきちひろ画集」を読みました。 私はいわさきちひろさんの絵を見れば心が安らぎます。きっと純粋な方であったでしょうね。 いわさきちひろ(1918~1974 享年55歳)は、子供の水彩画に代表される画家、絵本作家です。 ○ 出版社から絵の輪郭がぼやけているから直せと言われたが、いわさきちひろさんは妥協しなかった。出版社から注文こなく干された時期もあった。いわゆる常識なんて駄目であてになりませんね。 ○ 彼女は「子どもの幸せと平和」を願い、原爆やベトナム戦争の中で傷つき死んでいった子どもたちに心を寄せていました。1967年『わたしがちいさかったときに』は稲庭桂子の勧めで、作文集『原爆の子』(岩波書店版 長田新編)と詩集『原子雲の下より』(青木書店版)から抜粋した文にちひろが絵を描いて出版されました。1972年、童画ぐるーぷ車の展覧会に「こども」と題した3枚のタブローを出品。これがきっかけとなって制作された、ベトナム戦争の中での子どもたちを描いた1973年の『戦火のなかの子どもたち』がちひろ最後の絵本となりました。 1973年秋、肝臓癌が見つかり1974年8月8日、原発性肝臓癌のため死去されました。

「いわさきちひろ画集」を読みました。
私はいわさきちひろさんの絵を見れば心が安らぎます。きっと純粋な方であったでしょうね。
いわさきちひろ(1918~1974 享年55歳)は、子供の水彩画に代表される画家、絵本作家です。
○ 出版社から絵の輪郭がぼやけているから直せと言われたが、いわさきちひろさんは妥協しなかった。出版社から注文こなく干された時期もあった。いわゆる常識なんて駄目であてになりませんね。
○ 彼女は「子どもの幸せと平和」を願い、原爆やベトナム戦争の中で傷つき死んでいった子どもたちに心を寄せていました。1967年『わたしがちいさかったときに』は稲庭桂子の勧めで、作文集『原爆の子』(岩波書店版 長田新編)と詩集『原子雲の下より』(青木書店版)から抜粋した文にちひろが絵を描いて出版されました。1972年、童画ぐるーぷ車の展覧会に「こども」と題した3枚のタブローを出品。これがきっかけとなって制作された、ベトナム戦争の中での子どもたちを描いた1973年の『戦火のなかの子どもたち』がちひろ最後の絵本となりました。 1973年秋、肝臓癌が見つかり1974年8月8日、原発性肝臓癌のため死去されました。

「密談の戦後史 塩田潮」を読む。 著者は「文芸春秋」記者として多くの政治家と面会し、インタビューを行い、マスコミに現れない、政治家達の裏面工作を知る事となった。 ○ 次期首相の座をめぐる裏工作から政界再編を賭けた秘密裏の交渉まで、歴史の転換点で行われたのが密談である。 ○ 幣原喜重郎とダグラス・マッカーサーによる憲法9条誕生の密談から安倍晋三が再登板を決意する密談まで、戦後政治とはまさに密談の歴史といえる。 ○ 本書は、1945年8月の第2次世界大戦終結から、現在の第2期安倍政権が発足する2012年12月まで、67年間の政治史の中から計33の密談を取り上げている。 大きく区分けすると、「政権奪取に関する密談」「政権延命に関する密談」「首相辞任をめぐる密談」「政治構造の転換をめぐる密談」「政策や法案成立に関する密談」「その他の政治工作に関する密談」の6タイプ。政治を変える決定的な役割を果たした密談・密約を通して、知られざる戦後史をたどっていく。

「密談の戦後史 塩田潮」を読む。
著者は「文芸春秋」記者として多くの政治家と面会し、インタビューを行い、マスコミに現れない、政治家達の裏面工作を知る事となった。
○ 次期首相の座をめぐる裏工作から政界再編を賭けた秘密裏の交渉まで、歴史の転換点で行われたのが密談である。
○ 幣原喜重郎とダグラス・マッカーサーによる憲法9条誕生の密談から安倍晋三が再登板を決意する密談まで、戦後政治とはまさに密談の歴史といえる。
○ 本書は、1945年8月の第2次世界大戦終結から、現在の第2期安倍政権が発足する2012年12月まで、67年間の政治史の中から計33の密談を取り上げている。
大きく区分けすると、「政権奪取に関する密談」「政権延命に関する密談」「首相辞任をめぐる密談」「政治構造の転換をめぐる密談」「政策や法案成立に関する密談」「その他の政治工作に関する密談」の6タイプ。政治を変える決定的な役割を果たした密談・密約を通して、知られざる戦後史をたどっていく。

2018年6月29日金曜日

「赤穂浪士の実像 谷口眞子」を読む。 著者は浄瑠璃、歌舞伎のフィクションを含有する忠臣蔵の視点から離れ赤穂浪士を語る。また「討入の成功」という結果論の物語の侵入を排して、等身大の義士像を掴むことに努めている。 しかしこの本のどこにもいわゆる「衝撃の真実」というものはない。 確かに本書では、お家再興かしからずんば討入かという明確なオプションを持って深謀をめぐらす大石内蔵助ではなく、都度の状況変化に「交錯する」大石内蔵助の様子が証しだされている。 過去の戦争においてフィクションを内臓した忠臣蔵の武士道論が国民のあるべき姿とされたのは残念である。

「赤穂浪士の実像 谷口眞子」を読む。
著者は浄瑠璃、歌舞伎のフィクションを含有する忠臣蔵の視点から離れ赤穂浪士を語る。また「討入の成功」という結果論の物語の侵入を排して、等身大の義士像を掴むことに努めている。
しかしこの本のどこにもいわゆる「衝撃の真実」というものはない。
確かに本書では、お家再興かしからずんば討入かという明確なオプションを持って深謀をめぐらす大石内蔵助ではなく、都度の状況変化に「交錯する」大石内蔵助の様子が証しだされている。
過去の戦争においてフィクションを内臓した忠臣蔵の武士道論が国民のあるべき姿とされたのは残念である。

6月29日 気温は30℃ 千葉市稲浜公民館の花壇にグラジオラスが咲きました。 グラジオラスの花言葉は「思い出」です。 June 29 temperature 30 ℃  Gladiolus bloomed in the flowerbed of the Inahama public hall in Chiba City. The flower language of Gladiolus is "memories".

6月29日 気温は30℃
千葉市稲浜公民館の花壇にグラジオラスが咲きました。
グラジオラスの花言葉は「思い出」です。

June 29 temperature 30 ℃ 
Gladiolus bloomed in the flowerbed of the Inahama public hall in Chiba City.
The flower language of Gladiolus  is "memories".

「わしの眼は十年先が見える 大原孫三郎の生涯 城山三郎」を読む。 私は大原孫三郎についてはどういう方か知りませんでした。この本を読み勉強になりました。 ○ 大原孫三郎(1880~1943)は倉敷の大地主の家に生まれたため、一代で家を興した人物ではない。 学生時代は放蕩生活を送り現在の金額にして1億円に及ぶ借金を負うなどいかにもお坊ちゃんといった面もある。キリスト教に入信する。 ○ ただこの人物のすごいところは、自己の恵まれた財力を社会に貢献するという信念の元に惜しげもなく注ぎ込んだところにある。 ○ 大原美術館を創立し一流の西洋美術を展示した功績は大きい。 そのお陰で倉敷の市街が第二次世界大戦の爆撃から避けられた偉大な功績がある。 ○20代の若さで石井十次という人物と出会い孤児院の設立に力を尽くしたことに始まり、より良い社会を作りたいという思いから大原社会問題研究所を、農業技術の振興のために農業研究所をと、次々と研究所を立ち上げ、更には才能ありと見込んだ画家の児島虎次郎に西洋美術品の収集を行わせるといった形で、「金持ちの道楽」と言われながらも「わしの眼は十年先が見える」と自分の信念に基づいて反対を押し切り、金を注ぎ込んでいく。 ○ ただの金持ちの道楽であれば金を使い果たして終わりになると思うが、その一方で父から引き継いだ地方紡績会社を日本で有数の会社に育て上げたという経営手腕も見事である。 それも従業員の生活向上のために寄宿舎を新設、賃上げ、従業員教育の拡充といった、孫三郎らしい革新的な会社経営を実践しながらである。この孫三郎の精神は息子の大原 總一郎にも引き継がれて企業の「社会的責任」の先駆者的な役割を果たしていくことになる。

「わしの眼は十年先が見える 大原孫三郎の生涯 城山三郎」を読む。
私は大原孫三郎についてはどういう方か知りませんでした。この本を読み勉強になりました。
○ 大原孫三郎(1880~1943)は倉敷の大地主の家に生まれたため、一代で家を興した人物ではない。
学生時代は放蕩生活を送り現在の金額にして1億円に及ぶ借金を負うなどいかにもお坊ちゃんといった面もある。キリスト教に入信する。
○ ただこの人物のすごいところは、自己の恵まれた財力を社会に貢献するという信念の元に惜しげもなく注ぎ込んだところにある。
○ 大原美術館を創立し一流の西洋美術を展示した功績は大きい。
そのお陰で倉敷の市街が第二次世界大戦の爆撃から避けられた偉大な功績がある。
○20代の若さで石井十次という人物と出会い孤児院の設立に力を尽くしたことに始まり、より良い社会を作りたいという思いから大原社会問題研究所を、農業技術の振興のために農業研究所をと、次々と研究所を立ち上げ、更には才能ありと見込んだ画家の児島虎次郎に西洋美術品の収集を行わせるといった形で、「金持ちの道楽」と言われながらも「わしの眼は十年先が見える」と自分の信念に基づいて反対を押し切り、金を注ぎ込んでいく。
○ ただの金持ちの道楽であれば金を使い果たして終わりになると思うが、その一方で父から引き継いだ地方紡績会社を日本で有数の会社に育て上げたという経営手腕も見事である。
それも従業員の生活向上のために寄宿舎を新設、賃上げ、従業員教育の拡充といった、孫三郎らしい革新的な会社経営を実践しながらである。この孫三郎の精神は息子の大原 總一郎にも引き継がれて企業の「社会的責任」の先駆者的な役割を果たしていくことになる。

2018年6月27日水曜日

「枕草子 田中澄江」を読む。 この本は「古典の旅シリーズ」である。古典の舞台を巡る新しい発見の旅。美しい土地の美しい風物。自然の優美さ、人々の生活の楽しさを情緒豊かに綴った王朝女性の夢と憧れと心の軌跡を四季おりおりに訪ねてゆく。古典と旅への誘い書下ろしエッセイである。 『枕草子』は、平安時代中期に中宮定子に仕えた女房、清少納言により執筆されたと伝わる随筆である。 清少納言(966~ 1025頃)は、平安時代中期の女流作家、歌人。随筆『枕草子』は平安文学の代表作の一つです。清少納言は紫式部と同時代に活躍した。父親は有名歌人 清原元輔である。 「枕草子」は京の四季を讃える言葉から始まる。 第1段 春はあけぼの やうやう しろくなり行く、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたるくものほそく たなびきたる。 最終段(三二三段)  わが心にもめでたくも思ふことを、人に語り、かやうにも書きつくれば、君の御ためかるがるしきやうなるも、いとかしこし。  されど、この草子は、目に見え心に思ふことの、よしなくあやしきも、つれづれなるをりに、人やは見むとするに思ひて書きあつめたるを、あいなく人のため便(びん)なき言ひ過ごしつつべき所々あれば、いとよく隠しおきたりと思ひしを、涙せきあへずこそなりにけれ。

「枕草子 田中澄江」を読む。
この本は「古典の旅シリーズ」である。古典の舞台を巡る新しい発見の旅。美しい土地の美しい風物。自然の優美さ、人々の生活の楽しさを情緒豊かに綴った王朝女性の夢と憧れと心の軌跡を四季おりおりに訪ねてゆく。古典と旅への誘い書下ろしエッセイである。
『枕草子』は、平安時代中期に中宮定子に仕えた女房、清少納言により執筆されたと伝わる随筆である。
清少納言(966~ 1025頃)は、平安時代中期の女流作家、歌人。随筆『枕草子』は平安文学の代表作の一つです。清少納言は紫式部と同時代に活躍した。父親は有名歌人 清原元輔である。
「枕草子」は京の四季を讃える言葉から始まる。
第1段
春はあけぼの やうやう しろくなり行く、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたるくものほそく たなびきたる。
最終段(三二三段)
 わが心にもめでたくも思ふことを、人に語り、かやうにも書きつくれば、君の御ためかるがるしきやうなるも、いとかしこし。
 されど、この草子は、目に見え心に思ふことの、よしなくあやしきも、つれづれなるをりに、人やは見むとするに思ひて書きあつめたるを、あいなく人のため便(びん)なき言ひ過ごしつつべき所々あれば、いとよく隠しおきたりと思ひしを、涙せきあへずこそなりにけれ。

「落日燃ゆ 城山三郎」を読む。 極東国際軍事裁判においてA級戦犯で絞首刑になった、ただ一人の文民、広田弘毅の生涯を語る悲劇の書である。 ○ 広田弘毅は右翼団体黒龍会員として占領軍から危険人物とされ印象を悪くしたが、実際は黒龍会員ではなかった。 ○ 広田弘毅は極東軍事裁判で天皇の追訴を避ける為、また、太平洋戦争開始時期の首相でなかった。しかし元首相として戦争を回避することができなかった責任を自ら取った。 極東国際軍事裁判は広田弘毅が陸軍と共同謀議(conspiracy)に参加したとし有罪にしたのである。実際は陸軍の暴走を抑えるため苦慮した。 ○ 広田弘毅はアメリカを中心とする連合国軍の裁判に一言も言い訳をせずに絞首刑になった。広田弘毅の信条は「自ら計らわない。」であった。 ○ また責任のなすりあいで被害者を出したくないという理由などで一言も弁明をせず、死刑を甘受受した。 しかも、戦争を回避することに尽力した人物であるにもかかわらず、絞首刑になった矛盾が存在する。広田弘毅の家族の気持ちを想像するに難くない。

「落日燃ゆ 城山三郎」を読む。
極東国際軍事裁判においてA級戦犯で絞首刑になった、ただ一人の文民、広田弘毅の生涯を語る悲劇の書である。
○ 広田弘毅は右翼団体黒龍会員として占領軍から危険人物とされ印象を悪くしたが、実際は黒龍会員ではなかった。
○ 広田弘毅は極東軍事裁判で天皇の追訴を避ける為、また、太平洋戦争開始時期の首相でなかった。しかし元首相として戦争を回避することができなかった責任を自ら取った。
極東国際軍事裁判は広田弘毅が陸軍と共同謀議(conspiracy)に参加したとし有罪にしたのである。実際は陸軍の暴走を抑えるため苦慮した。
○ 広田弘毅はアメリカを中心とする連合国軍の裁判に一言も言い訳をせずに絞首刑になった。広田弘毅の信条は「自ら計らわない。」であった。
○ また責任のなすりあいで被害者を出したくないという理由などで一言も弁明をせず、死刑を甘受受した。
しかも、戦争を回避することに尽力した人物であるにもかかわらず、絞首刑になった矛盾が存在する。広田弘毅の家族の気持ちを想像するに難くない。

2018年6月26日火曜日

「大義の末 城山三郎」を読む。 ○ 経済小説の大家である城山三郎氏が、自らの戦争体験を下に天皇制の問題に切り込んだ異色作である。 ○ この書は柿見と言う少年の天皇制に対する心の変遷を語る小説である。  中学生の柿見は杉本五郎中佐の著作「大義」を読んで、海軍予科練を志望する。 戦争は敗北という結果になり、柿見の愛国少年の純粋な気持ちを呑み込み、挫折、絶望へと導いていく。終戦をむかえたのだが、柿見は戦後社会に適合できず、その「大義」に続く世界を、皇太子「平成天皇」の中に見出す。 やがて故郷に帰った柿見が直面したものは、戦前に戦意高揚を煽った人物達が、そのことを忘れて権力の座についている姿だった。 ○ 「大義」は陸軍中佐杉本五郎(1900~1938 38 歳で戦死)の書である。この書は戦時中の死生観を示す代表的な著書とされ、天皇を尊び、天皇のために身を捧げることこそ、日本人の唯一の生き方と説いている。本書を読み杉本に憧れ軍人を志した者も少なくない。

「大義の末 城山三郎」を読む。
○ 経済小説の大家である城山三郎氏が、自らの戦争体験を下に天皇制の問題に切り込んだ異色作である。
○ この書は柿見と言う少年の天皇制に対する心の変遷を語る小説である。
 中学生の柿見は杉本五郎中佐の著作「大義」を読んで、海軍予科練を志望する。
戦争は敗北という結果になり、柿見の愛国少年の純粋な気持ちを呑み込み、挫折、絶望へと導いていく。終戦をむかえたのだが、柿見は戦後社会に適合できず、その「大義」に続く世界を、皇太子「平成天皇」の中に見出す。
やがて故郷に帰った柿見が直面したものは、戦前に戦意高揚を煽った人物達が、そのことを忘れて権力の座についている姿だった。
○ 「大義」は陸軍中佐杉本五郎(1900~1938 38 歳で戦死)の書である。この書は戦時中の死生観を示す代表的な著書とされ、天皇を尊び、天皇のために身を捧げることこそ、日本人の唯一の生き方と説いている。本書を読み杉本に憧れ軍人を志した者も少なくない。

恥ずかしながらサークルで描いた私の絵手紙です。全くの素人絵です。 作品はアガパンサス、チロリアンランプ、額紫陽花のスケッチです。

恥ずかしながらサークルで描いた私の絵手紙です。全くの素人絵です。
作品はアガパンサス、チロリアンランプ、額紫陽花のスケッチです。

2018年6月25日月曜日

「陸軍中野学校と沖縄戦 川満彰」を読む。 ○ 太平洋戦争末期、激しい戦闘が行われた沖縄に、陸軍中野学校出身者の42名が潜伏した。諜報活動など秘密戦を学んだ彼らの任務とは護郷隊(少年隊)を組織する事であった。 ○ 当時から存在が隠されていたこの組織は、故郷を護(まも)る隊という意味で「護郷隊(ごきょうたい)」と名付けられた。護郷隊は山に潜み、最前線で奇襲攻撃を繰り返すゲリラ部隊であった。 ○ 護郷隊は沖縄県恩納岳(おんなたけ)、多野岳(たのたけ)に合計約1000名配置された。その内162人が戦死したとされる。

「陸軍中野学校と沖縄戦 川満彰」を読む。
○ 太平洋戦争末期、激しい戦闘が行われた沖縄に、陸軍中野学校出身者の42名が潜伏した。諜報活動など秘密戦を学んだ彼らの任務とは護郷隊(少年隊)を組織する事であった。
○ 当時から存在が隠されていたこの組織は、故郷を護(まも)る隊という意味で「護郷隊(ごきょうたい)」と名付けられた。護郷隊は山に潜み、最前線で奇襲攻撃を繰り返すゲリラ部隊であった。
○ 護郷隊は沖縄県恩納岳(おんなたけ)、多野岳(たのたけ)に合計約1000名配置された。その内162人が戦死したとされる。

2018年6月24日日曜日

「フランス人がときめいた日本の美術館 ソフィー・リチャード」を読む。 2018年6月17日のNHK日曜美術館でソフィー・リチャードさんが私たち日本人の気がつかない日本の美術館の魅力を話しておられたのに驚きました。 ○ 日本では毎年沢山の美術館ガイドが発売されますが、本書を読むとそれらの本が如何に感激のない狭い視野によって書かれていたかが分かります。 ○ 作品についてだけでなく、その美術館の成り立ち、建築、展覧会、イベント情報などが書かれており、さらに近隣情報にはほとんどがアートとは殆ど関係ないことも書かれています。著者が非常に広く深い好奇心を持っていることがわかります。 ○ 旅の目的を観光地でなく美術館巡りにするというのも何だか贅沢な時間の使い方で憧れます。どんなアートにも人を元気にする力があるので、充電のため、また美術館巡りがしたくなります。

「フランス人がときめいた日本の美術館 ソフィー・リチャード」を読む。
2018年6月17日のNHK日曜美術館でソフィー・リチャードさんが私たち日本人の気がつかない日本の美術館の魅力を話しておられたのに驚きました。
○ 日本では毎年沢山の美術館ガイドが発売されますが、本書を読むとそれらの本が如何に感激のない狭い視野によって書かれていたかが分かります。
○ 作品についてだけでなく、その美術館の成り立ち、建築、展覧会、イベント情報などが書かれており、さらに近隣情報にはほとんどがアートとは殆ど関係ないことも書かれています。著者が非常に広く深い好奇心を持っていることがわかります。
○ 旅の目的を観光地でなく美術館巡りにするというのも何だか贅沢な時間の使い方で憧れます。どんなアートにも人を元気にする力があるので、充電のため、また美術館巡りがしたくなります。

「指揮官たちの特攻 城山三郎」を読む。 ○ 特攻隊を美化してはならない。最初の特攻隊員 関行夫大尉の言葉、最後の特攻隊員 中津留達雄大尉の行動を深く思う。 ○ 関行夫大尉は昭和19年10月25日、最初の特攻隊としてレイテ島沖で米艦隊に突撃した。 ○ 関行夫大尉の最後の言葉 「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある。僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛の妻のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。」 ○ 中津留達雄大尉は昭和20年8月15日夕刻、昭和天皇の終戦勅令の後、宇垣纏中将の命令で沖縄へと飛び立ち、そのまま還らぬ人となった ○昭和20年8月15日正午、全日本国軍の降伏とポツダム宣言の受諾を伝える昭和天皇の玉音放送が発せられる。これを受けて宇垣纏中将は「未だ停戦命令に接せず。」と強弁し特攻隊の出撃を命令する。既に終戦の勅令の後の軍事行為は許される事でない。 宇垣纏中将は中津留大尉の操縦する彗星43型に搭乗する。彗星43型は2人乗りだが、遠藤秋章飛曹長が交代を拒否したため、宇垣、中津留、遠藤の3人が乗ることになった。 特攻隊は合計11機23名(途中3機が不時着、5名生存)。 宇垣機からは訣別電があり、続いて「敵空母見ユ」「ワレ必中突入ス」を最後に連絡は途絶えた。アメリカ軍に被害はなく、宇垣の特攻隊は確認もされておらず、沖縄付近の海面に墜落したものと思われる。この特攻隊による死者は宇垣を含め18名である。 ○ 関大尉は新婚三ヶ月余り、中津留大尉は長女誕生直後の特攻となる。 ○ 戦中は軍神の母と崇められながらも、戦後は、一転、家に石を投げ込まれ、山中の小学校の用務員として生涯を終えた関大尉の母や、息子の分まで、と百歳まで生きた中津留大尉の父の戦後の生きざまも印象深かった。 ○ 一方で、「桜花」をはじめ次々と開発される特攻兵器、「きさまらの、代わりは一厘五銭で、いくらでも来る」とうそぶく上官、暴力がまん延する海軍内部の荒廃ぶりには怒りさえわいてきた。

「指揮官たちの特攻 城山三郎」を読む。
○ 特攻隊を美化してはならない。最初の特攻隊員 関行夫大尉の言葉、最後の特攻隊員 中津留達雄大尉の行動を深く思う。
○ 関行夫大尉は昭和19年10月25日、最初の特攻隊としてレイテ島沖で米艦隊に突撃した。
○ 関行夫大尉の最後の言葉 「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある。僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛の妻のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。」
○ 中津留達雄大尉は昭和20年8月15日夕刻、昭和天皇の終戦勅令の後、宇垣纏中将の命令で沖縄へと飛び立ち、そのまま還らぬ人となった
○昭和20年8月15日正午、全日本国軍の降伏とポツダム宣言の受諾を伝える昭和天皇の玉音放送が発せられる。これを受けて宇垣纏中将は「未だ停戦命令に接せず。」と強弁し特攻隊の出撃を命令する。既に終戦の勅令の後の軍事行為は許される事でない。
宇垣纏中将は中津留大尉の操縦する彗星43型に搭乗する。彗星43型は2人乗りだが、遠藤秋章飛曹長が交代を拒否したため、宇垣、中津留、遠藤の3人が乗ることになった。
特攻隊は合計11機23名(途中3機が不時着、5名生存)。
宇垣機からは訣別電があり、続いて「敵空母見ユ」「ワレ必中突入ス」を最後に連絡は途絶えた。アメリカ軍に被害はなく、宇垣の特攻隊は確認もされておらず、沖縄付近の海面に墜落したものと思われる。この特攻隊による死者は宇垣を含め18名である。
○ 関大尉は新婚三ヶ月余り、中津留大尉は長女誕生直後の特攻となる。
○ 戦中は軍神の母と崇められながらも、戦後は、一転、家に石を投げ込まれ、山中の小学校の用務員として生涯を終えた関大尉の母や、息子の分まで、と百歳まで生きた中津留大尉の父の戦後の生きざまも印象深かった。
○ 一方で、「桜花」をはじめ次々と開発される特攻兵器、「きさまらの、代わりは一厘五銭で、いくらでも来る」とうそぶく上官、暴力がまん延する海軍内部の荒廃ぶりには怒りさえわいてきた。

6月23日テレビ東京 美の巨人たち田中一村「アダンの海辺」を見る ○ 絹地に岩絵の具で描かれた日本画「アダンの海辺」は千葉市美術館に寄託されています。この絵は田中一村の代表作です。幸い私は千葉市美術館で何度も観賞しました。 ○ 作者は今から60年前、奄美大島で暮らし始めた田中一村(1908~1977)です。無名の画家だった一村は50歳の時に奄美大島へ移住。土地勘もない奄美の大自然に圧倒され、取りつかれたように描き始め、移住12年目に「アダンの海辺」が誕生します。驚くべきは海辺の描写。一粒一粒緻密に描かれた砂れきはどのように描いたのか。これは電気石(トルマリン)で描いたであろう。 よく見ると落款がないなぜ。それはこの作品を描くのに精力を使い果たしたであろう。 田中一村はこの絵を「閻魔大王への土産」と称していた。

6月23日テレビ東京 美の巨人たち田中一村「アダンの海辺」を見る
○ 絹地に岩絵の具で描かれた日本画「アダンの海辺」は千葉市美術館に寄託されています。この絵は田中一村の代表作です。幸い私は千葉市美術館で何度も観賞しました。
○ 作者は今から60年前、奄美大島で暮らし始めた田中一村(1908~1977)です。無名の画家だった一村は50歳の時に奄美大島へ移住。土地勘もない奄美の大自然に圧倒され、取りつかれたように描き始め、移住12年目に「アダンの海辺」が誕生します。驚くべきは海辺の描写。一粒一粒緻密に描かれた砂れきはどのように描いたのか。これは電気石(トルマリン)で描いたであろう。
よく見ると落款がないなぜ。それはこの作品を描くのに精力を使い果たしたであろう。
田中一村はこの絵を「閻魔大王への土産」と称していた。

2018年6月23日土曜日

6月23日 千葉市美術館 所蔵品展 「浮世絵黄金期からの展開」に行く。 千葉市美術館は浮世絵の所蔵をもって誇りとしています。 ○ 18世紀後半、江戸の人々は、安定した都市の恩恵に満悦感をおぼえ、この地に深い愛着を持っていたようです。   江戸の地で生まれた浮世絵が、最も華やかな展開をしたこの時代を、後に「浮世絵の黄金期」と呼ぶようになりました。喜多川歌麿(?-1806)、鳥文斎栄之(1756-1829)、勝川春章(1743-93)、歌川豊国(1769-1825)といったスター絵師が誕生し、武士から庶民まで浮世絵を身近に楽しむようになったのです。 ○  この展示では、喜多川歌麿が新潟の豪農のために描いたと伝えられる、重要美術品「納涼美人図」をはじめ、千葉市美術館の誇る浮世絵コレクションから、浮世絵黄金期の名品を選んで展示しています。

6月23日 千葉市美術館 所蔵品展 「浮世絵黄金期からの展開」に行く。
千葉市美術館は浮世絵の所蔵をもって誇りとしています。
○ 18世紀後半、江戸の人々は、安定した都市の恩恵に満悦感をおぼえ、この地に深い愛着を持っていたようです。
  江戸の地で生まれた浮世絵が、最も華やかな展開をしたこの時代を、後に「浮世絵の黄金期」と呼ぶようになりました。喜多川歌麿(?-1806)、鳥文斎栄之(1756-1829)、勝川春章(1743-93)、歌川豊国(1769-1825)といったスター絵師が誕生し、武士から庶民まで浮世絵を身近に楽しむようになったのです。
○  この展示では、喜多川歌麿が新潟の豪農のために描いたと伝えられる、重要美術品「納涼美人図」をはじめ、千葉市美術館の誇る浮世絵コレクションから、浮世絵黄金期の名品を選んで展示しています。

6月23日千葉市美術館「岡本神草展 」に行きました。 岡本神草(本名・敏郎)は明治27(1894)年、神戸市に生まれました。彼は大正4年に京都市立美術工芸学校絵画科を卒業後、京都市立絵画専門学校に進学します。   最初は当時広く流行していた新南画風の作品を描いていましたが、大正5年頃から生涯のモティーフとなった舞妓を竹久夢二風に描くようになります。その世界は浮世絵の影響を受けてしだいに濃厚な官能性を帯びるようになり、大正7年の第1回国画創作協会展(国展)に入選した《口紅》によって一気に開花し、新興美人画作家として注目を集めました。   大正9年、第3回国展に出品した《拳を打てる三人の舞妓の習作》では官能性の先にある神秘的な存在感を追究し、将来を期待されるようになります。その後菊池契月に師事し、新たな展開を模索するなか、昭和8(1933)年に38歳の若さで急逝しました。  今回は《口紅》、《拳を打てる三人の舞妓の習作》等のこれまでに知られている作品をはじめ、寡作で知られる岡本神草の数少ない完成作を可能な限り集め、素描・下図・資料類約100点の他に甲斐庄楠音など共に競い合った仲間や師の契月などの作品も展示します。  本展覧会は昨秋京都国立近代美術館で開催され、大きな反響を呼びました。東日本で唯一本展を開催する千葉市美術館は、巡回の最終会場となります

6月23日千葉市美術館「岡本神草展 」に行きました。
岡本神草(本名・敏郎)は明治27(1894)年、神戸市に生まれました。彼は大正4年に京都市立美術工芸学校絵画科を卒業後、京都市立絵画専門学校に進学します。
  最初は当時広く流行していた新南画風の作品を描いていましたが、大正5年頃から生涯のモティーフとなった舞妓を竹久夢二風に描くようになります。その世界は浮世絵の影響を受けてしだいに濃厚な官能性を帯びるようになり、大正7年の第1回国画創作協会展(国展)に入選した《口紅》によって一気に開花し、新興美人画作家として注目を集めました。
  大正9年、第3回国展に出品した《拳を打てる三人の舞妓の習作》では官能性の先にある神秘的な存在感を追究し、将来を期待されるようになります。その後菊池契月に師事し、新たな展開を模索するなか、昭和8(1933)年に38歳の若さで急逝しました。

 今回は《口紅》、《拳を打てる三人の舞妓の習作》等のこれまでに知られている作品をはじめ、寡作で知られる岡本神草の数少ない完成作を可能な限り集め、素描・下図・資料類約100点の他に甲斐庄楠音など共に競い合った仲間や師の契月などの作品も展示します。
 本展覧会は昨秋京都国立近代美術館で開催され、大きな反響を呼びました。東日本で唯一本展を開催する千葉市美術館は、巡回の最終会場となります

6月23日曇り後雨、気温24℃、友人と千葉公園の大賀蓮をたっぷり観賞しました。午前中で雨の降る前でハッピー。 私は毎年この時期に大賀蓮を観賞するのを楽しみにしています。 大賀蓮は、1951年(昭和26年)、千葉県千葉市検見川(現・千葉市花見川区朝日ケ丘町)にある東京大学検見川厚生農場(現・東京大学検見川総合運動場)の落合遺跡で発掘された、今から2000年以上前の古代の蓮の実から発芽・開花した古代蓮です。

6月23日曇り後雨、気温24℃、友人と千葉公園の大賀蓮をたっぷり観賞しました。午前中で雨の降る前でハッピー。
私は毎年この時期に大賀蓮を観賞するのを楽しみにしています。
大賀蓮は、1951年(昭和26年)、千葉県千葉市検見川(現・千葉市花見川区朝日ケ丘町)にある東京大学検見川厚生農場(現・東京大学検見川総合運動場)の落合遺跡で発掘された、今から2000年以上前の古代の蓮の実から発芽・開花した古代蓮です。

「更級日記 杉本苑子」を読む 「更級日記」の著者は菅原道真の子孫である菅原孝標の娘(1008~没年不明)であり彼女の実名は不明である。 日記と言うがが回想録である。我々が言う日記でない。記述の大半は、父親菅原孝標と共に上総(現在の千葉県)の国府から京都まで旅した回想である。 彼女は幼少時、物語の世界に憧れを抱き源氏物語などを耽読する。 成長する過程で信心を促される夢を見たり理想の結婚が出来なかった事で挫折を味わう。彼女は物語と歌に熱中してきた後ろめたさやそれが因果応報で幸福な人生を送れなかった事を気に留めたようである。 本書は写真と地図付きであり大変読み易い

「更級日記 杉本苑子」を読む
「更級日記」の著者は菅原道真の子孫である菅原孝標の娘(1008~没年不明)であり彼女の実名は不明である。
日記と言うがが回想録である。我々が言う日記でない。記述の大半は、父親菅原孝標と共に上総(現在の千葉県)の国府から京都まで旅した回想である。
彼女は幼少時、物語の世界に憧れを抱き源氏物語などを耽読する。
成長する過程で信心を促される夢を見たり理想の結婚が出来なかった事で挫折を味わう。彼女は物語と歌に熱中してきた後ろめたさやそれが因果応報で幸福な人生を送れなかった事を気に留めたようである。
本書は写真と地図付きであり大変読み易い

2018年6月22日金曜日

6月22日(金)お早うございます。千葉市は晴れ、29℃の予報です。 皆さまのご健康を祈ります。 稲浜公民館の花壇に向日葵(ひまわり)が咲きました。 向日葵花言葉は「愛慕」です。 イタリア映画「ひまわり」をふと思う。良い映画だったな。 主演のソフィア・ローレン(Sophia Loren)の演技が良かった。 June 22 Friday Good morning. Weather in Chiba City, fine , 29℃ on forecast. Dear friend please have a nice day. Sunflower bloomed near flower bed in Inahama comunity center . The language of flowers of sunflower "adoration". I thought Italian movie "Sunflower" (I Girasoli) It was nice movie. I think leading actress Sophia Loren was very nice.

6月22日(金)お早うございます。千葉市は晴れ、29℃の予報です。
皆さまのご健康を祈ります。
稲浜公民館の花壇に向日葵(ひまわり)が咲きました。
向日葵花言葉は「愛慕」です。
イタリア映画「ひまわり」をふと思う。良い映画だったな。
主演のソフィア・ローレン(Sophia Loren)の演技が良かった。

June 22 Friday Good morning. Weather in Chiba City, fine , 29℃ on forecast.
Dear friend please have a nice day.
Sunflower bloomed near  flower bed in  Inahama comunity center .
The language of flowers of sunflower  "adoration".
I thought Italian movie "Sunflower" (I Girasoli)  It was nice movie.
I think leading actress Sophia Loren was very nice.

2018年6月21日木曜日

6月21日NHKBSプレミアム英雄たちの選択「橋本左内 維新を先駆けた男 安政の大獄に死す!」を見る。 ○ 橋本 左内(1834 ~ 1859 享年26歳)は幕末の志士、思想家、越前国福井藩藩士である。 ○ 大坂に出て適塾で医者の緒方洪庵に師事する。1852年(嘉永5年)、19歳の春に父・長綱が病気のため大阪での勉強を打ち切って帰藩し、代診に従事して患者の治療に励んだ。 父が病死すると、外科担当の藩医の列に加えられた。1854年(安政元年)には江戸に遊学し、蘭学者坪井信良の塾に入り、間もなく先生の紹介で杉田成卿に師事し、蘭方医学を学ぶ。 ○ その後、水戸藩の藤田東湖、薩摩藩の西郷吉之助、小浜藩の梅田雲浜、熊本藩の横井小楠らと交流する。窮迫した時勢に接するうちに、医学を離れたい心をおこした左内は、中根雪江、鈴木主税の尽力によって1855年(安政2年)に藩医職を解かれ、御書院番組に転じた。やがて福井藩主の松平春嶽(慶永)に側近として登用され、1857年(安政4年)正月藩校・明道館学監となる。在任中は、明倫館内に洋学講習所と武芸師範所を設けた。同8月、江戸詰めを命じられ、侍読兼御内用係を務め、藩主の側近として藩の政治、国の政治に大きな関わりを持つようになった。 ○ 江戸幕府14代将軍を巡る将軍継嗣問題では、春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴えた。また幕藩体制は維持した上で西欧の先進技術の導入を構想し、帝国主義と地政学の観点から日本の安全保障を弁じた先覚者でもあった。 ○ 1859年(安政6年)、幕府 大老となった井伊直弼の手により安政の大獄が始まり、春嶽が隠居謹慎を命じられると、将軍継嗣問題に介入したことを問われて取り調べを受け、親戚の朧勘蔵の邸に幽閉され、謹慎を命じられた。1859年(安政6年)伝馬町牢屋敷で斬首となった。

6月21日NHKBSプレミアム英雄たちの選択「橋本左内 維新を先駆けた男 安政の大獄に死す!」を見る。
○ 橋本 左内(1834 ~ 1859 享年26歳)は幕末の志士、思想家、越前国福井藩藩士である。
○ 大坂に出て適塾で医者の緒方洪庵に師事する。1852年(嘉永5年)、19歳の春に父・長綱が病気のため大阪での勉強を打ち切って帰藩し、代診に従事して患者の治療に励んだ。 父が病死すると、外科担当の藩医の列に加えられた。1854年(安政元年)には江戸に遊学し、蘭学者坪井信良の塾に入り、間もなく先生の紹介で杉田成卿に師事し、蘭方医学を学ぶ。
○ その後、水戸藩の藤田東湖、薩摩藩の西郷吉之助、小浜藩の梅田雲浜、熊本藩の横井小楠らと交流する。窮迫した時勢に接するうちに、医学を離れたい心をおこした左内は、中根雪江、鈴木主税の尽力によって1855年(安政2年)に藩医職を解かれ、御書院番組に転じた。やがて福井藩主の松平春嶽(慶永)に側近として登用され、1857年(安政4年)正月藩校・明道館学監となる。在任中は、明倫館内に洋学講習所と武芸師範所を設けた。同8月、江戸詰めを命じられ、侍読兼御内用係を務め、藩主の側近として藩の政治、国の政治に大きな関わりを持つようになった。
○ 江戸幕府14代将軍を巡る将軍継嗣問題では、春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴えた。また幕藩体制は維持した上で西欧の先進技術の導入を構想し、帝国主義と地政学の観点から日本の安全保障を弁じた先覚者でもあった。
○ 1859年(安政6年)、幕府 大老となった井伊直弼の手により安政の大獄が始まり、春嶽が隠居謹慎を命じられると、将軍継嗣問題に介入したことを問われて取り調べを受け、親戚の朧勘蔵の邸に幽閉され、謹慎を命じられた。1859年(安政6年)伝馬町牢屋敷で斬首となった。

秋田県大館市のニプロハチ公ドーム近くにある温泉「ふるさわおんせん」に、秋田犬の「看板娘」がいる。雌で1歳3カ月の「温(はる)」だ。5月には子犬6匹を産んだ。玄関で客を出迎えて愛嬌(あいきょう)を振りまきながら、子育てに奮闘している。

秋田県大館市のニプロハチ公ドーム近くにある温泉「ふるさわおんせん」に、秋田犬の「看板娘」がいる。雌で1歳3カ月の「温(はる)」だ。5月には子犬6匹を産んだ。玄関で客を出迎えて愛嬌(あいきょう)を振りまきながら、子育てに奮闘している。

2018年6月20日水曜日

「別冊太陽 生誕100年記念 金子みすゞ」を読む。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 蜂と神様  金子みすゞ 蜂はお花のなかに お花はお庭のなかに お庭は土塀のなかに 土塀は町のなかに 町は日本のなかに 日本は世界のなかに 世界は神様のなかに そうして、そうして、神様は 小ちゃな蜂のなかに。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ○ 金子みすゞ(1903~1930 享年26歳)の童謡詩には心が打たれる。 金子みすゞの童謡詩はいまや何処でもふれるようになった。 しかし金子みすゞさんの童謡詩は、彼女の生前には世に知られていなかった。 ○ この太陽別冊で注目したのは、みすずの直筆の写真と、娘である上村ふさえさんはインタビュー記事である。  草場睦弘氏の金子みすゞの童謡詩が掘り起こされた過程を丁寧に説明した「金子みすゞ甦りまでの軌跡」に述べられている。  世に埋もれてしまうところだった金子みすゞさんの童謡詩の再評価が、娘である上村ふさえさんインタビューは大切な再評価のきっかけであったことがわかった。 金子みすゞ再評価の中心となった矢崎節夫さんの功績は大きい この本には金子みすゞさんの自筆も数多く載っていて彼女自身の字で書かれた詩は一層優しく感じられた。

「別冊太陽 生誕100年記念 金子みすゞ」を読む。
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蜂と神様  金子みすゞ
蜂はお花のなかに
お花はお庭のなかに
お庭は土塀のなかに
土塀は町のなかに
町は日本のなかに
日本は世界のなかに
世界は神様のなかに

そうして、そうして、神様は
小ちゃな蜂のなかに。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
○ 金子みすゞ(1903~1930  享年26歳)の童謡詩には心が打たれる。
金子みすゞの童謡詩はいまや何処でもふれるようになった。
しかし金子みすゞさんの童謡詩は、彼女の生前には世に知られていなかった。
○ この太陽別冊で注目したのは、みすずの直筆の写真と、娘である上村ふさえさんはインタビュー記事である。
 草場睦弘氏の金子みすゞの童謡詩が掘り起こされた過程を丁寧に説明した「金子みすゞ甦りまでの軌跡」に述べられている。
 世に埋もれてしまうところだった金子みすゞさんの童謡詩の再評価が、娘である上村ふさえさんインタビューは大切な再評価のきっかけであったことがわかった。
金子みすゞ再評価の中心となった矢崎節夫さんの功績は大きい
この本には金子みすゞさんの自筆も数多く載っていて彼女自身の字で書かれた詩は一層優しく感じられた。

6月19日BS日テレぶらぶら美術館▪博物館初夏に行きたい!東北アートツアー2~日本三景・松島で伊達家ゆかりの寺院めぐり~瑞巌寺」を見る。 東北アートツアー第2弾は、日本三景で名高い松島へ! まずは、遊覧船で松島湾めぐり。この道12年、名物ガイドさんの名調子で、無数にある島の特徴やその謂れを伺い、震災後も美しい景観を見せる松島の姿を学びます。 続いては、平成の大修理を終えたばかりの国宝瑞巌寺。昨年、生誕450年を迎えた伊達政宗公の菩提寺として知られるお寺です。1609年に伊達政宗が再興した瑞巌寺。 瑞巌寺は伊達政宗の隠し砦とも伝えられる。 国宝の本堂では、京都の名工が作った欄間や障壁画などを堪能。さらに今回は特別に豊臣秀吉の聚楽第を再現したともいわれる部屋に入れてもらいぶら美一行も溜息。 そして、瑞巌寺のお隣りの円通院へ。こちらは、別名「薔薇寺」と呼ばれる女性に人気の穴場スポット。趣向を凝らした3つの庭園が楽しめます。そもそもなぜお寺に西洋庭園が…?伊達政宗の孫の霊廟にも薔薇の絵が!お寺と西洋とのつながり、意外な歴史的背景を伺います。 見どころいっぱい!初夏に行きたい、日本三景・松島パーフェクトガイドです。

6月19日BS日テレぶらぶら美術館▪博物館初夏に行きたい!東北アートツアー2~日本三景・松島で伊達家ゆかりの寺院めぐり~瑞巌寺」を見る。
東北アートツアー第2弾は、日本三景で名高い松島へ!
まずは、遊覧船で松島湾めぐり。この道12年、名物ガイドさんの名調子で、無数にある島の特徴やその謂れを伺い、震災後も美しい景観を見せる松島の姿を学びます。
続いては、平成の大修理を終えたばかりの国宝瑞巌寺。昨年、生誕450年を迎えた伊達政宗公の菩提寺として知られるお寺です。1609年に伊達政宗が再興した瑞巌寺。
瑞巌寺は伊達政宗の隠し砦とも伝えられる。
国宝の本堂では、京都の名工が作った欄間や障壁画などを堪能。さらに今回は特別に豊臣秀吉の聚楽第を再現したともいわれる部屋に入れてもらいぶら美一行も溜息。
そして、瑞巌寺のお隣りの円通院へ。こちらは、別名「薔薇寺」と呼ばれる女性に人気の穴場スポット。趣向を凝らした3つの庭園が楽しめます。そもそもなぜお寺に西洋庭園が…?伊達政宗の孫の霊廟にも薔薇の絵が!お寺と西洋とのつながり、意外な歴史的背景を伺います。
見どころいっぱい!初夏に行きたい、日本三景・松島パーフェクトガイドです。

6月20日(水)お早うございます。皆様のご健康を祈ります。千葉市は小雨、19 ℃ お近くの花壇に百合の花が咲きました。 「夏の野の茂みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものぞ 大伴坂上郎女 万葉集8~1500」 

6月20日(水)お早うございます。皆様のご健康を祈ります。千葉市は小雨、19 ℃
お近くの花壇に百合の花が咲きました。

「夏の野の茂みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものぞ 大伴坂上郎女 万葉集8~1500」 

2018年6月19日火曜日

「今昔物語 安西篤子」を読む。 ○ 今昔物語は1120年代からあまり遠くない白河法皇・鳥羽法皇による院政期に成立したものと見られている。言わば平安時代の短編小説集である。 ○ 今昔物語は31巻からなる。収められた説話1000余である。 ○ 芥川龍之介も谷崎潤一郎も今昔物語の中の物語からヒントを得て自らの小説を書いている。 ○ 著者安西篤子さんは、今昔物語の中の主な所を訪れる。 訪れた場所は、道成寺、京都の六角堂、勧修寺、護王神社、仁和寺、瀬田の橋、伏見稲荷、羅城門、安積山、大和の箸塚である。

「今昔物語 安西篤子」を読む。
○ 今昔物語は1120年代からあまり遠くない白河法皇・鳥羽法皇による院政期に成立したものと見られている。言わば平安時代の短編小説集である。
○ 今昔物語は31巻からなる。収められた説話1000余である。
○ 芥川龍之介も谷崎潤一郎も今昔物語の中の物語からヒントを得て自らの小説を書いている。
○ 著者安西篤子さんは、今昔物語の中の主な所を訪れる。
訪れた場所は、道成寺、京都の六角堂、勧修寺、護王神社、仁和寺、瀬田の橋、伏見稲荷、羅城門、安積山、大和の箸塚である。

「伊勢物語 土佐日記 津島祐子」を読む。 ○ 和歌が紡ぐ“うたものがたり”の典型、「なにしおはば」の『伊勢物語』と「男もすなる日記」の『土佐日記』。 ○ 二つの古典に浮かび出る王朝びとたちの、“都”への熱く深い思い。けわしい山路や、海の路に、彼らの心をたどる。歌を道づれに、日本の心を訪ねよう。 伊勢物語の例歌 「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」 「月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」 「から衣きつつなりにしつましあればはるばるくぬるたびをしぞ思ふ」 「名にしほはばいざこと問はん都鳥わが思ふ人はありやなしやと」 ○ 「伊勢物語」も「土佐日記」も都を志向する物語である。 ○ 「伊勢物語」の作者は誰か多くの議論がある。答えは、長い年月をかけ、複数の場所で複数の人の関わりによりこの世にもたらされた物語である。そして在原業平の和歌をちりばめて業平以外の複数の人が書いたのである。 ○ 「土佐日記」は「とさのにき」と読むのが正しい。作者は紀貫之である。紀貫之は女性を仮託してこの物語を書いた。

「伊勢物語 土佐日記 津島祐子」を読む。
○ 和歌が紡ぐ“うたものがたり”の典型、「なにしおはば」の『伊勢物語』と「男もすなる日記」の『土佐日記』。
○ 二つの古典に浮かび出る王朝びとたちの、“都”への熱く深い思い。けわしい山路や、海の路に、彼らの心をたどる。歌を道づれに、日本の心を訪ねよう。
伊勢物語の例歌
「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」
「月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」
「から衣きつつなりにしつましあればはるばるくぬるたびをしぞ思ふ」
「名にしほはばいざこと問はん都鳥わが思ふ人はありやなしやと」

○ 「伊勢物語」も「土佐日記」も都を志向する物語である。
○ 「伊勢物語」の作者は誰か多くの議論がある。答えは、長い年月をかけ、複数の場所で複数の人の関わりによりこの世にもたらされた物語である。そして在原業平の和歌をちりばめて業平以外の複数の人が書いたのである。
○ 「土佐日記」は「とさのにき」と読むのが正しい。作者は紀貫之である。紀貫之は女性を仮託してこの物語を書いた。