2018年9月17日月曜日

「ハンナ・アーレント「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』 矢野久美子」を読む。 ○ この本は私たち日本人が全体主義の時代に生きナチスドイツと同盟し戦争を起こした深い反省をもたらす書でもある。 ○ 著名なドイツ生まれ、ユダヤ系、アメリカ人政治哲学者ハンナ・アーレント(Hanna Arendt 1906〜1975)の伝記である。 ○ 「ハンナ・アーレントがマールブルク大学への入学を決めたころ、マールブルク大学には『思考の国の隠れた王』がいるという噂が、哲学を志すドイツの学生たちのあいだで広まっていた。マルティン・ハイデガー(1889〜1976)のことである」。「ハンナ・アーレントもハイデガーの磁力に引き寄せられた学生の一人だった」。 ○ ハンナ・アーレントは「恥ずかしがりやで引っ込み思案で、心をうたれるほど美しい姿と寂しい瞳をした」「強烈さ、自律性、直観的才能、ことがらの核心を発見する力、それを探る力」を備えていた。 18歳のハンナ・アーレントは、17歳年上で妻子がいるハイデガーとの秘められた恋に落ちる。そして、1年半後に彼のもとを去る決心をする。 ○ ハンナ・アーレントは、師との恋愛から25年が経過した1950年、17年ぶりでハイデガーと再会する。「ハイデガーの学生として思考へと導かれた日々に感謝しながらも、ハンナ・アーレントは全体主義をその身にこうむった自身の時代経験によって、その(ハイデガーの)思考とは一線を画さざるをえない」というのが、アーレントが辿り着いた結論であった。 ○ ハンナ・アーレントはハイデガーだけでなく、カール・ヤスパース、ヴァルター・ベンヤミン、エリック・ホッファーといった哲学者・思想家とも親交を重ねている。 1940年、アメリカへの亡命の途中、状況に絶望したベンヤミンは自殺してしまう。この直前にベンヤミンから託された原稿「歴史哲学テーゼ」(「歴史の概念について」)を携えて、アーレントはフランスからアメリカへの亡命を果たす。 ○ 1938年からの時期に政治の観察におけるハンナ・アーレントと(2番目の夫となるハインリッヒ・)ブリュッヒャーの役割分担が生じた。 ハンナ・アーレントが反ユダヤ主義をふくむ右翼の分析に集中し、ブリュッヒャーがスターリンによる支配に変質していく左翼の分析を引き受けた形であった」。 ○ ハンナ・アーレントはパリ亡命時代には、「こうした友人たちが集まったベンヤミンのアパルトマンでは、フランスの政治やユダヤ人問題、マルクス主義やファシズム、哲学や文学、さらにはそれぞれの生活状況のことなど、多くのことが語られ、共有されていた。こうして日々の糧を与えあわなければ生き延びられない状況があったのだ」。 ○ 1940年、ハンナ・アーレントはフランス南西部のナチスのギュルス収容所に収容されるが、脱走に成功し、アメリカに亡命する。 ○ その結果、アメリカで「論争的エッセイスト」が誕生するのである。ユダヤ人が「少数のパーリア(賎民)の思考から学ぶことの意義をハンナ・アーレントは強調し、ハインリッヒ・ハイネ(1797〜1856)、ベルナール・ラザール(1865〜1903)、チャーリー・チャップリン(1889〜1977)、フランツ・カフカ(1883〜1924)をパーリアの四類型としてあげたのだった」。 ○ 反ユダヤ主義、帝国主義、全体主義を論じた大著『全体主義の起原』について、興味深いエピソードが記されている。 ハンナ・アーレントは、表題を「起原」よりも「要素」とすべきだったと悔やんでいるのだ。 ○ 「ハンナアーレントにとって最も重要だったのは、人間の無用性をつきつけたガス室やそれを実現させた全体的支配という出来事の『法外さ』と『先例のなさ』を直視すること、そして『政治的思考の概念とカテゴリーを破裂させた』その前代未聞の事態と向き合うことだった。彼女にとって理解とは、現実にたいして前もって考えを思いめぐらせておくのではなく、『注意深く直面し、抵抗すること』であった。従来使用してきたカテゴリーを当てはめて納得するのではなく、既知のものと(新たに)起こったことの新奇な点とを区別し、考え抜くことであった」。別の可能性もあり得た、それなのにどうしてこのような事態(全体主義)に至ってしまったのか、ということを考え抜いた著作なのである。 ○ 1963年、「ハンナ・アーレントは(ナチス秘密警察ゲシュタポのユダヤ人部門の責任者として『最終解決』<行政的大量殺戮>の実行を担った)ナチの官僚アドルフ・アイヒマンのエルサレムでの裁判について(ニューヨーカー誌にルポルタージュ『イェルサレムのアイヒマン。悪の陳腐さについての報告』を)書き、そのことによって、ユダヤ人の友人のほとんどを失うことになる」 ハンナ・アーレントは、時のイスラエル首相、ベン・グリオンが裁判を「ユダヤ人の苦難の巨大なパノラマ」という「見世物」にしたと指摘し、かつて存在したナチ官僚とユダヤ人組織の協力関係に言及した。さらに、アイヒマンを怪物的な悪の権化ではなく思考の欠如した凡庸な男として叙述したためである。 ○ アーレントが目指したものに関して――アーレントは「独裁体制のもとでの個人の責任」を問い続けた思想家であった。「加害者だけでなく被害者においても道徳が混乱することを、アーレントは全体主義の決定的な特徴ととらえていた」。「アーレントは生涯にわたって暗い時代における世界との関わり方を問い続けた。アーレントが強調する世界とは、行為する人びとのあいだにあり、世代を超えて続くものである。ヨーロッパの知的伝統においては、世界に受け入れられないとき、自己の内面へと退去したり、予測不可能な出来事に満ちた世界とは関係のない理想郷を打ちたてたり、特定の世界観に固執したり、科学的客観性を掲げたりという姿勢があった。アーレントにとって、こうした姿勢は全体主義と相容れないものではなく、またそれに対抗できるものでもなかった」。 ○ 「アーレントは、複数の人びとが距離をもって共有する世界を媒介とせずに人びとが直接に結びつく同胞愛や親交の温かさのなかでは、人びとは論争を避け、可能なかぎり対立を避けると語る。彼女はこうした同胞愛や温かさが不必要だと言っているのではない。それが政治的領域を支配してしまうとき、複数の視点から見るという世界の特徴が失われ、奇妙な非現実性が生まれると言うのである。複数の視点が存在する領域の外部にある真理は、善いものであろうと悪いものであろうと、非人間的なものだ、と彼女は言い切る。なぜなら、それは突如として人間を一枚岩の単一の意見にまとめ、単数の人間、一つの種族だけが地上に住むかのような事態を生じさせる恐れがあるからである。世界喪失への危惧はこうしたところにも存在していた」。

「ハンナ・アーレント「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』 矢野久美子」を読む。
○ この本は私たち日本人が全体主義の時代に生きナチスドイツと同盟し戦争を起こした深い反省をもたらす書でもある。
○ 著名なドイツ生まれ、ユダヤ系、アメリカ人政治哲学者ハンナ・アーレント(Hanna Arendt 1906〜1975)の伝記である。
○ 「ハンナ・アーレントがマールブルク大学への入学を決めたころ、マールブルク大学には『思考の国の隠れた王』がいるという噂が、哲学を志すドイツの学生たちのあいだで広まっていた。マルティン・ハイデガー(1889〜1976)のことである」。「ハンナ・アーレントもハイデガーの磁力に引き寄せられた学生の一人だった」。
○ ハンナ・アーレントは「恥ずかしがりやで引っ込み思案で、心をうたれるほど美しい姿と寂しい瞳をした」「強烈さ、自律性、直観的才能、ことがらの核心を発見する力、それを探る力」を備えていた。
18歳のハンナ・アーレントは、17歳年上で妻子がいるハイデガーとの秘められた恋に落ちる。そして、1年半後に彼のもとを去る決心をする。
○ ハンナ・アーレントは、師との恋愛から25年が経過した1950年、17年ぶりでハイデガーと再会する。「ハイデガーの学生として思考へと導かれた日々に感謝しながらも、ハンナ・アーレントは全体主義をその身にこうむった自身の時代経験によって、その(ハイデガーの)思考とは一線を画さざるをえない」というのが、アーレントが辿り着いた結論であった。
○ ハンナ・アーレントはハイデガーだけでなく、カール・ヤスパース、ヴァルター・ベンヤミン、エリック・ホッファーといった哲学者・思想家とも親交を重ねている。
1940年、アメリカへの亡命の途中、状況に絶望したベンヤミンは自殺してしまう。この直前にベンヤミンから託された原稿「歴史哲学テーゼ」(「歴史の概念について」)を携えて、アーレントはフランスからアメリカへの亡命を果たす。
○ 1938年からの時期に政治の観察におけるハンナ・アーレントと(2番目の夫となるハインリッヒ・)ブリュッヒャーの役割分担が生じた。
ハンナ・アーレントが反ユダヤ主義をふくむ右翼の分析に集中し、ブリュッヒャーがスターリンによる支配に変質していく左翼の分析を引き受けた形であった」。
○ ハンナ・アーレントはパリ亡命時代には、「こうした友人たちが集まったベンヤミンのアパルトマンでは、フランスの政治やユダヤ人問題、マルクス主義やファシズム、哲学や文学、さらにはそれぞれの生活状況のことなど、多くのことが語られ、共有されていた。こうして日々の糧を与えあわなければ生き延びられない状況があったのだ」。
○ 1940年、ハンナ・アーレントはフランス南西部のナチスのギュルス収容所に収容されるが、脱走に成功し、アメリカに亡命する。
○ その結果、アメリカで「論争的エッセイスト」が誕生するのである。ユダヤ人が「少数のパーリア(賎民)の思考から学ぶことの意義をハンナ・アーレントは強調し、ハインリッヒ・ハイネ(1797〜1856)、ベルナール・ラザール(1865〜1903)、チャーリー・チャップリン(1889〜1977)、フランツ・カフカ(1883〜1924)をパーリアの四類型としてあげたのだった」。
○ 反ユダヤ主義、帝国主義、全体主義を論じた大著『全体主義の起原』について、興味深いエピソードが記されている。
ハンナ・アーレントは、表題を「起原」よりも「要素」とすべきだったと悔やんでいるのだ。
○ 「ハンナアーレントにとって最も重要だったのは、人間の無用性をつきつけたガス室やそれを実現させた全体的支配という出来事の『法外さ』と『先例のなさ』を直視すること、そして『政治的思考の概念とカテゴリーを破裂させた』その前代未聞の事態と向き合うことだった。彼女にとって理解とは、現実にたいして前もって考えを思いめぐらせておくのではなく、『注意深く直面し、抵抗すること』であった。従来使用してきたカテゴリーを当てはめて納得するのではなく、既知のものと(新たに)起こったことの新奇な点とを区別し、考え抜くことであった」。別の可能性もあり得た、それなのにどうしてこのような事態(全体主義)に至ってしまったのか、ということを考え抜いた著作なのである。
○ 1963年、「ハンナ・アーレントは(ナチス秘密警察ゲシュタポのユダヤ人部門の責任者として『最終解決』<行政的大量殺戮>の実行を担った)ナチの官僚アドルフ・アイヒマンのエルサレムでの裁判について(ニューヨーカー誌にルポルタージュ『イェルサレムのアイヒマン。悪の陳腐さについての報告』を)書き、そのことによって、ユダヤ人の友人のほとんどを失うことになる」
ハンナ・アーレントは、時のイスラエル首相、ベン・グリオンが裁判を「ユダヤ人の苦難の巨大なパノラマ」という「見世物」にしたと指摘し、かつて存在したナチ官僚とユダヤ人組織の協力関係に言及した。さらに、アイヒマンを怪物的な悪の権化ではなく思考の欠如した凡庸な男として叙述したためである。

○ アーレントが目指したものに関して――アーレントは「独裁体制のもとでの個人の責任」を問い続けた思想家であった。「加害者だけでなく被害者においても道徳が混乱することを、アーレントは全体主義の決定的な特徴ととらえていた」。「アーレントは生涯にわたって暗い時代における世界との関わり方を問い続けた。アーレントが強調する世界とは、行為する人びとのあいだにあり、世代を超えて続くものである。ヨーロッパの知的伝統においては、世界に受け入れられないとき、自己の内面へと退去したり、予測不可能な出来事に満ちた世界とは関係のない理想郷を打ちたてたり、特定の世界観に固執したり、科学的客観性を掲げたりという姿勢があった。アーレントにとって、こうした姿勢は全体主義と相容れないものではなく、またそれに対抗できるものでもなかった」。
○ 「アーレントは、複数の人びとが距離をもって共有する世界を媒介とせずに人びとが直接に結びつく同胞愛や親交の温かさのなかでは、人びとは論争を避け、可能なかぎり対立を避けると語る。彼女はこうした同胞愛や温かさが不必要だと言っているのではない。それが政治的領域を支配してしまうとき、複数の視点から見るという世界の特徴が失われ、奇妙な非現実性が生まれると言うのである。複数の視点が存在する領域の外部にある真理は、善いものであろうと悪いものであろうと、非人間的なものだ、と彼女は言い切る。なぜなら、それは突如として人間を一枚岩の単一の意見にまとめ、単数の人間、一つの種族だけが地上に住むかのような事態を生じさせる恐れがあるからである。世界喪失への危惧はこうしたところにも存在していた」。

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