2018年7月31日火曜日

「あるがままに 笠智衆」を読む。 ○ 笠智衆さんの出演する映画を観て良いなと思った方、笠さんのファンの人にお薦めの一冊です。 ○ 私は「男はつらいよ」寅さんシリーズ第1作で奈良の場面で笠智衆さん扮するご前様が、「チーズ」と言うのを「バター」と言う場面が大好きです。 ○ 最近、笠智衆さんの「俳優になろうか」を読んだばかりだが、また笠智衆さんのお人柄が好きでこの本を読む。お笑い下され。 ○ 笠智衆さん(1904~ 1993 享年88歳)は自ら小津安二郎監督にめぐり会え良い俳優になったと述べる。 ○ 全296ページのうち最初の109ページまでが笠智衆さんの自叙伝です。 ○ 後半のほとんどは笠智衆さんの周囲にいた俳優、映画監督、脚本家など24名が笠さんについて述べている構成に作られています。 ○ その後半の34ページ分が笠智衆さんの略年譜で、88歳までに出演した全映画・テレビ作品や簡単なプライベートなどが記されています。また、モノクロ写真が多数挿入されて、もう一冊の彼による著作である「俳優になろうか」よりもその量はずっと多く、映画の中のシーンだけではなくて、家族とのプライベートの写真もあり、楽しませてくれます。

「あるがままに 笠智衆」を読む。
○ 笠智衆さんの出演する映画を観て良いなと思った方、笠さんのファンの人にお薦めの一冊です。
○ 私は「男はつらいよ」寅さんシリーズ第1作で奈良の場面で笠智衆さん扮するご前様が、「チーズ」と言うのを「バター」と言う場面が大好きです。
○ 最近、笠智衆さんの「俳優になろうか」を読んだばかりだが、また笠智衆さんのお人柄が好きでこの本を読む。お笑い下され。
○ 笠智衆さん(1904~ 1993 享年88歳)は自ら小津安二郎監督にめぐり会え良い俳優になったと述べる。
○ 全296ページのうち最初の109ページまでが笠智衆さんの自叙伝です。
○ 後半のほとんどは笠智衆さんの周囲にいた俳優、映画監督、脚本家など24名が笠さんについて述べている構成に作られています。
○ その後半の34ページ分が笠智衆さんの略年譜で、88歳までに出演した全映画・テレビ作品や簡単なプライベートなどが記されています。また、モノクロ写真が多数挿入されて、もう一冊の彼による著作である「俳優になろうか」よりもその量はずっと多く、映画の中のシーンだけではなくて、家族とのプライベートの写真もあり、楽しませてくれます。

7月31日 千葉市は晴、32℃。稲毛ギャラリーで「第48回世界児童画展」が開催していますので見て来ました。開催期間は 7月31日~8月5日 お近くの方々ご覧になったら如何でしょうか。子供さんの絵は見て楽しいですね。

7月31日 千葉市は晴、32℃。稲毛ギャラリーで「第48回世界児童画展」が開催していますので見て来ました。開催期間は 7月31日~8月5日
お近くの方々ご覧になったら如何でしょうか。子供さんの絵は見て楽しいですね。

2018年7月30日月曜日

「権力の驕りに抗して 私の履歴書 J.W.フルブライト」を読む。 ○ この本は、フルブライト氏(James William Fulbright, 1905 - 1995 享年89 歳)の日本経済新聞社連載の「私の履歴書」を纏めたもので、フルブライト氏の人生を、概観できる書である。 ○ フルブライト氏はアメリカの良心を体現した偉人である。 1946年の「国際教育交換計画」 (フルブライト教育計画 ) の提案者として知られる。 また東南アジア,ベトナム政策をきびしく批判した。 ○ フルブライト氏は、フルブライト留学生制度の「生みの親」で、それは、フルブライト氏がローズ奨学生としてイギリスに留学した経験、つまり、他国の言語・文化・歴史を理解し、その国の人間性に触れることが、世界の平和につながるという考えが基礎となっている。 フルブライト氏は国際紛争は話し合いにより解決すべきであるとする。その為には留学制度により、お互いに友人を持つべきだと主張する。 ○ 1959年2月以来上院外交委員長でハト派の巨頭としてアメリカの外交政策において正論を主張した。 ○ フルブライト氏は1939年にはアーカンソー大学学長に任命されたが、アメリカ合衆国内最年少の学長であった。フルブライト氏はヒトラー独裁ナチスドイツに反対して戦うべきと言った為2年で解雇された。驚くべき事だ。 ○ フルブライト氏は国際連合の発案者でもあり、アメリカ第一主義(アメリカファースト)に反対した。 ○ また、フルブライト氏は、マッカーシズムと対決し、ベトナム反戦を貫いた。 マッカーシー氏はフルブライト交換学生を共産主義のスパイと攻撃した。実はマッカーシー氏はアルコール中毒であった。 しかし今も他国を批判する所謂愛国者は後を絶たないのは、残念である。 ○ フルブライト氏はケネディ大統領に駐日本大使にライシャワー博士を推薦した。 ○フルブライト氏は日本が軍事面以外の面で世界に貢献する事を期待した。

「権力の驕りに抗して 私の履歴書 J.W.フルブライト」を読む。
○ この本は、フルブライト氏(James William Fulbright, 1905 - 1995 享年89 歳)の日本経済新聞社連載の「私の履歴書」を纏めたもので、フルブライト氏の人生を、概観できる書である。
○ フルブライト氏はアメリカの良心を体現した偉人である。
1946年の「国際教育交換計画」 (フルブライト教育計画 ) の提案者として知られる。
また東南アジア,ベトナム政策をきびしく批判した。
○ フルブライト氏は、フルブライト留学生制度の「生みの親」で、それは、フルブライト氏がローズ奨学生としてイギリスに留学した経験、つまり、他国の言語・文化・歴史を理解し、その国の人間性に触れることが、世界の平和につながるという考えが基礎となっている。 フルブライト氏は国際紛争は話し合いにより解決すべきであるとする。その為には留学制度により、お互いに友人を持つべきだと主張する。
○ 1959年2月以来上院外交委員長でハト派の巨頭としてアメリカの外交政策において正論を主張した。
○ フルブライト氏は1939年にはアーカンソー大学学長に任命されたが、アメリカ合衆国内最年少の学長であった。フルブライト氏はヒトラー独裁ナチスドイツに反対して戦うべきと言った為2年で解雇された。驚くべき事だ。
○ フルブライト氏は国際連合の発案者でもあり、アメリカ第一主義(アメリカファースト)に反対した。
○ また、フルブライト氏は、マッカーシズムと対決し、ベトナム反戦を貫いた。
マッカーシー氏はフルブライト交換学生を共産主義のスパイと攻撃した。実はマッカーシー氏はアルコール中毒であった。
しかし今も他国を批判する所謂愛国者は後を絶たないのは、残念である。
○ フルブライト氏はケネディ大統領に駐日本大使にライシャワー博士を推薦した。
○フルブライト氏は日本が軍事面以外の面で世界に貢献する事を期待した。

「歌舞伎五十年私の履歴書 永山武臣」を読む。 役者と舞台の思い出で綴る半生記を語る書である。戦後歌舞伎史の証言である。 私は歌舞伎については知らぬ事が多いので勉強になった。 ○ 永山武臣(1925- 2006 享年81歳)さんは松竹社長・会長を務められた。 永山武臣さんの人生そのものが戦後歌舞伎の歴史である。 ○ 学習院初等科と高等科を卒業。 京都帝国大学経済学部へ入学し、1948年(昭和23年)3月に京都大学経済学部を卒業した。 ○ 大学在学中の1947年に松竹に入社し、東京劇場監事室に配属された。 ○ 戦後のGHQの統制下には、一時歌舞伎衰退の危機があったが、歌舞伎復興に成功した。 1951年の東京・歌舞伎座の再開と同時にその監事室に配属され、松竹創業者の一人である大谷竹次郎の下で、同年に上演された「源氏物語」(9代目市川海老蔵(後の11代目市川團十郎)や7代目尾上梅幸、2代目尾上松緑ら)や6代目中村歌右衛門襲名披露興行など第2次世界大戦後初期の歌舞伎の代表的な公演に関わることになった。 ○ 1953年(昭和28年)12月に歌舞伎座で上演した「地獄変」(芥川龍之介原作)は、学習院初等科時代からの友人であった三島由紀夫に依頼して歌舞伎化をしたもので、「三島歌舞伎」と呼ばれるものの第1作となった。 ○ 歌舞伎の海外上演に早くから取り組み、1960年に第1回の米国公演を行ったのを皮切りに、翌年の1961年にソ連公演を行った。 ○ 松竹では、歌舞伎以外でも藤山寛美の喜劇、映画「男はつらいよ」寅さんシリーズは大ヒットとなった。

「歌舞伎五十年私の履歴書 永山武臣」を読む。
役者と舞台の思い出で綴る半生記を語る書である。戦後歌舞伎史の証言である。
私は歌舞伎については知らぬ事が多いので勉強になった。
○ 永山武臣(1925- 2006 享年81歳)さんは松竹社長・会長を務められた。
永山武臣さんの人生そのものが戦後歌舞伎の歴史である。
○ 学習院初等科と高等科を卒業。 京都帝国大学経済学部へ入学し、1948年(昭和23年)3月に京都大学経済学部を卒業した。
○ 大学在学中の1947年に松竹に入社し、東京劇場監事室に配属された。
○ 戦後のGHQの統制下には、一時歌舞伎衰退の危機があったが、歌舞伎復興に成功した。
1951年の東京・歌舞伎座の再開と同時にその監事室に配属され、松竹創業者の一人である大谷竹次郎の下で、同年に上演された「源氏物語」(9代目市川海老蔵(後の11代目市川團十郎)や7代目尾上梅幸、2代目尾上松緑ら)や6代目中村歌右衛門襲名披露興行など第2次世界大戦後初期の歌舞伎の代表的な公演に関わることになった。
○ 1953年(昭和28年)12月に歌舞伎座で上演した「地獄変」(芥川龍之介原作)は、学習院初等科時代からの友人であった三島由紀夫に依頼して歌舞伎化をしたもので、「三島歌舞伎」と呼ばれるものの第1作となった。
○ 歌舞伎の海外上演に早くから取り組み、1960年に第1回の米国公演を行ったのを皮切りに、翌年の1961年にソ連公演を行った。
○ 松竹では、歌舞伎以外でも藤山寛美の喜劇、映画「男はつらいよ」寅さんシリーズは大ヒットとなった。

7月30日 高洲市民プールで泳ぎました。気温30℃水温29℃で快適だった。プール外庭のカンナが素晴らしい。 高齢者の方々もプールに来ておられました。皆さんは「日常生活で他人さまのお世話にならず負担にならず生きていきたい。」と言っておられました。私も見習いたい。

7月30日 高洲市民プールで泳ぎました。気温30℃水温29℃で快適だった。プール外庭のカンナが素晴らしい。
高齢者の方々もプールに来ておられました。皆さんは「日常生活で他人さまのお世話にならず負担にならず生きていきたい。」と言っておられました。私も見習いたい。

2018年7月29日日曜日

「昭和史 1926→1945 半藤一利」を読む。 ○ 「昭和史」は、学校では殆ど授業されない。然らば自分で学ぶ必要がある。我々の不十分な「昭和史」の知識を体系づけた理解させる書である。私たちは昭和史の失敗を真摯に学ぶ事がなければ、亦同じ失敗に陥るだろう。 ○ 戦争は大量殺人を前提として成立する。太平洋戦争では約350万人の日本人老若男女が犠牲になった。昭和史を読むと心が痛む。 ○ 日本は1865年に開国し、懸命に富国強兵を進め40年後に近代国家を完成させた。その40年後の1945年に太平洋戦争に敗北し国家は壊滅した。 ○ 昭和は戦争の歴史だが、そのキーはまずは満州(中国東北部)にある。満州は日本国防の最大の防衛線と宣伝され、資源の乏しい日本に魅力の鉄と石炭があり、日本人移民政策の約40~50万人の人口流出先であり、満州の権益を得て拡大していった。日本の失敗は全てここから出発した。 ○ 本来陸海軍を統率する「統帥権」は天皇のみが行使できるものだ。それを陸海軍が欲しいままに乱用し、満州事変、ノモンハン事件、満州事変、支那事変、太平洋戦争へと進んでいった。 ○ 強気一辺倒の軍部と、閉塞感が国を危なくした。陸海軍は困った事は無かった事にしよう。起きない事にしようと考えであった。。 ○ 更に陸軍の昭和4年の張作霖爆殺事件、昭和5年のロンドン軍縮条約に対する海軍軍令部の反対は昭和の戦争への方向への2大事件だ。 そして陸海軍の常套手段「統帥権干犯」と言う自己の主張を持ち出す考え方が確立された。 ○ 二二六事件の眼目は「皇居占拠計画」にあった。 ○ 「ノモンハン事件」で最悪は関東軍参謀の服部卓四郎中佐と辻正信少佐。その後も二人は開戦直前に服部は参謀本部作戦課長、辻は戦力班長で復活した。 ○ 日独伊三国同盟の成立で日本はアメリカを敵に回す事になった。 ○ 「インパール作戦」で最悪は第十五軍牟田口廉也中将とビルマ方面軍河辺正三大将の補給無視の作戦である。 ○ 海軍特攻隊は志願と言う事になっているが、拒否困難な状態に隊員を落とし入れた、半強制であった。 ○ 日本の指導者は既に連合国に協調し敵になったソ連に終戦和平協力を願う。哀れな事だ。 ○ 1945年8月14日本はポツダム宣言を受け入れ、連合国に無条件降伏し8月15日昭和天皇陛下戦争の玉音放送により日本人は戦争が終わった事を知った。 ○ ソ連は終戦後、日本人約57万人を捕虜として拉致しシベリアの極寒の地で強制労働をせ、約10万人が死亡した。

「昭和史 1926→1945 半藤一利」を読む。
○ 「昭和史」は、学校では殆ど授業されない。然らば自分で学ぶ必要がある。我々の不十分な「昭和史」の知識を体系づけた理解させる書である。私たちは昭和史の失敗を真摯に学ぶ事がなければ、亦同じ失敗に陥るだろう。
○ 戦争は大量殺人を前提として成立する。太平洋戦争では約350万人の日本人老若男女が犠牲になった。昭和史を読むと心が痛む。
○ 日本は1865年に開国し、懸命に富国強兵を進め40年後に近代国家を完成させた。その40年後の1945年に太平洋戦争に敗北し国家は壊滅した。
○ 昭和は戦争の歴史だが、そのキーはまずは満州(中国東北部)にある。満州は日本国防の最大の防衛線と宣伝され、資源の乏しい日本に魅力の鉄と石炭があり、日本人移民政策の約40~50万人の人口流出先であり、満州の権益を得て拡大していった。日本の失敗は全てここから出発した。
○ 本来陸海軍を統率する「統帥権」は天皇のみが行使できるものだ。それを陸海軍が欲しいままに乱用し、満州事変、ノモンハン事件、満州事変、支那事変、太平洋戦争へと進んでいった。
○ 強気一辺倒の軍部と、閉塞感が国を危なくした。陸海軍は困った事は無かった事にしよう。起きない事にしようと考えであった。。
○ 更に陸軍の昭和4年の張作霖爆殺事件、昭和5年のロンドン軍縮条約に対する海軍軍令部の反対は昭和の戦争への方向への2大事件だ。
そして陸海軍の常套手段「統帥権干犯」と言う自己の主張を持ち出す考え方が確立された。
○ 二二六事件の眼目は「皇居占拠計画」にあった。
○ 「ノモンハン事件」で最悪は関東軍参謀の服部卓四郎中佐と辻正信少佐。その後も二人は開戦直前に服部は参謀本部作戦課長、辻は戦力班長で復活した。
○ 日独伊三国同盟の成立で日本はアメリカを敵に回す事になった。
○ 「インパール作戦」で最悪は第十五軍牟田口廉也中将とビルマ方面軍河辺正三大将の補給無視の作戦である。
○ 海軍特攻隊は志願と言う事になっているが、拒否困難な状態に隊員を落とし入れた、半強制であった。
○ 日本の指導者は既に連合国に協調し敵になったソ連に終戦和平協力を願う。哀れな事だ。
○ 1945年8月14日本はポツダム宣言を受け入れ、連合国に無条件降伏し8月15日昭和天皇陛下戦争の玉音放送により日本人は戦争が終わった事を知った。
○ ソ連は終戦後、日本人約57万人を捕虜として拉致しシベリアの極寒の地で強制労働をせ、約10万人が死亡した。

7月25日TV東京美の巨人たち京都建築シリーズ④「三千院」 放送900回を迎えた「美の巨人たち」7月は4週連続「放送900回記念・京都の建築シリーズ」をお送りしています。 ○ 最後を飾るのは京都大原の里山にある「三千院」。 中でも最も有名で重要な場所は、国の重要文化財「往生極楽院」。 黄金に輝く国宝・阿弥陀三尊像のためのお堂です。座して2メートルを超す阿弥陀如来その頭上には外観からは想像もつかない世界が!それは阿弥陀如来が来迎する天空が描かれていた。その天空は宝物館に再生されている。その天空には亡者を極楽に迎える天女が描かれている。 ○ 阿弥陀如来、観音菩薩(聖観音)、勢至菩薩の三尊が西方極楽浄土から亡者を迎えに来る(来迎)形式の像で、両脇侍が日本式の正座をしている点が特色である。2002年に国宝に指定されている 脇侍の勢至菩薩像像内の銘文から平安時代末期の1148年(久安4年)の作とわかる。

7月25日TV東京美の巨人たち京都建築シリーズ④「三千院」
放送900回を迎えた「美の巨人たち」7月は4週連続「放送900回記念・京都の建築シリーズ」をお送りしています。
○ 最後を飾るのは京都大原の里山にある「三千院」。
中でも最も有名で重要な場所は、国の重要文化財「往生極楽院」。
黄金に輝く国宝・阿弥陀三尊像のためのお堂です。座して2メートルを超す阿弥陀如来その頭上には外観からは想像もつかない世界が!それは阿弥陀如来が来迎する天空が描かれていた。その天空は宝物館に再生されている。その天空には亡者を極楽に迎える天女が描かれている。
○ 阿弥陀如来、観音菩薩(聖観音)、勢至菩薩の三尊が西方極楽浄土から亡者を迎えに来る(来迎)形式の像で、両脇侍が日本式の正座をしている点が特色である。2002年に国宝に指定されている
脇侍の勢至菩薩像像内の銘文から平安時代末期の1148年(久安4年)の作とわかる。

2018年7月28日土曜日

私の絵手紙サークルで描いた作品です。つたない絵手紙でご免なさい。 さくらんぼ、じゃがいも、コスモス、酔芙蓉、風船かずら。

私の絵手紙サークルで描いた作品です。つたない絵手紙でご免なさい。
さくらんぼ、じゃがいも、コスモス、酔芙蓉、風船かずら。

「落第坊主の履歴書 遠藤周作」を読む。 遠藤周作さん遠藤 周作(1923 - 1996)は、日本の小説家。随筆や文芸評論や戯曲も手がけた方です。遠藤周作さんは芥川賞作家である。 ○ この本は遠藤周作さんの純文学作品とは違った、幼少時代からの自叙伝です。 色々な写真とともに遠藤周作さんの語りは口とても愉快です。狐狸庵シリーズのように、面白可笑しく書かれています。 ○ 友人達の付き合いでホロっとするようなエピソードもあり、何故か周囲には有名なお友達が沢山おられるのは人徳であろうか。 ○ 遠藤周作さんが、早世した兄上と違い勉強が苦手でぼんやりした頭の悪い子だったと随分謙遜して書かれています。 ○ 遠藤周作さんは東京で生まれ幼少の頃満州で育った。旧制灘中学校の学生だった時、カトリックの洗礼を受けクリスチャンになった。 ○ 狐狸庵先生などと称される愉快で小仙人的な世間一般の持つ印象とは異なり、実物の遠藤周作は、おしゃれで痩身長躯すらりとした体つき(戦後間もない時代に183cm)の作家であり、豪放磊落開放的な態度で一般とも接するのを常としておられました。

「落第坊主の履歴書 遠藤周作」を読む。
遠藤周作さん遠藤 周作(1923 - 1996)は、日本の小説家。随筆や文芸評論や戯曲も手がけた方です。遠藤周作さんは芥川賞作家である。
○ この本は遠藤周作さんの純文学作品とは違った、幼少時代からの自叙伝です。 色々な写真とともに遠藤周作さんの語りは口とても愉快です。狐狸庵シリーズのように、面白可笑しく書かれています。
○ 友人達の付き合いでホロっとするようなエピソードもあり、何故か周囲には有名なお友達が沢山おられるのは人徳であろうか。
○ 遠藤周作さんが、早世した兄上と違い勉強が苦手でぼんやりした頭の悪い子だったと随分謙遜して書かれています。
○ 遠藤周作さんは東京で生まれ幼少の頃満州で育った。旧制灘中学校の学生だった時、カトリックの洗礼を受けクリスチャンになった。
○ 狐狸庵先生などと称される愉快で小仙人的な世間一般の持つ印象とは異なり、実物の遠藤周作は、おしゃれで痩身長躯すらりとした体つき(戦後間もない時代に183cm)の作家であり、豪放磊落開放的な態度で一般とも接するのを常としておられました。

2018年7月27日金曜日

「おわらない音楽 小澤征爾」を読む。 ○ 小澤征爾さんが2014年1月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」が単行本となった。 ○ ≪どんな人たちに支えられてきたか。その恩人たちを紹介するのが僕の「履歴書」かもしれない。≫という巻頭の小澤征爾さんの言葉通り、小澤征爾さんのサクセス・ストーリーの陰には、決定的な場面で重要な役割を果たした様々な人々との出会いがあった。 これまた小澤征爾さんの誠実な人柄であろう。 ○ 両親、兄弟、成城の仲間たち。ピアノを教えた豊増昇を始め、特に重要な人物は桐朋学園の創始者のひとりで小澤征爾さんに指揮を教えた斎藤秀雄氏であることは自明である。 ○ 初めて海外へ渡航したとき援助してくれた実業界の人々、ブザンソン指揮者コンクール参加を助けてくれたアメリカ大使館員。師事した偉大な指揮者ミュンシュ、バーンスタイン、そしてカラヤン。 ○ 1962年N響の小澤征爾ボイコット事件で、彼が落ち込んでいた時三島由紀夫、浅利慶太、石原慎太郎、井上靖、團伊玖磨、黛敏郎、大江健三郎、一柳慧など錚々たる文化人たちが日比谷公会堂で「小澤征爾の音楽を聴く会」を開いてバックアップしてくれた。 ○ ラヴィニア音楽祭に紹介した敏腕マネージャーのウィルフォード。小澤を音楽監督に指名したトロント響、サンフランシスコ響、ボストン響のマネージャーや役員たち。 ○ 1992年、小澤征爾の兄貴分とも言えるムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(愛称スラヴァ)の進言でN響の指揮を取り正式の和解が成立した。 ○ サイトウ・キネン・オーケストラを支援したスポンサー会社。ウィーン国立歌劇場のホーレンダー総監督などなど。 中でも食道がんの闘病生活の支えとなった家族の力は大きい。これほど周囲の人々に恵まれた音楽家がほかにいるだろうか。 ○ 小澤征爾という音楽家の原点は人を引き寄せる魅力ある人間性であることを改めて実感した。 「おわらない音楽」というタイトルは、音楽の怖さ、難しさ、奥の深い魅力を暗示しているように思う。

「おわらない音楽 小澤征爾」を読む。
○ 小澤征爾さんが2014年1月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」が単行本となった。
○ ≪どんな人たちに支えられてきたか。その恩人たちを紹介するのが僕の「履歴書」かもしれない。≫という巻頭の小澤征爾さんの言葉通り、小澤征爾さんのサクセス・ストーリーの陰には、決定的な場面で重要な役割を果たした様々な人々との出会いがあった。
これまた小澤征爾さんの誠実な人柄であろう。
○ 両親、兄弟、成城の仲間たち。ピアノを教えた豊増昇を始め、特に重要な人物は桐朋学園の創始者のひとりで小澤征爾さんに指揮を教えた斎藤秀雄氏であることは自明である。
○ 初めて海外へ渡航したとき援助してくれた実業界の人々、ブザンソン指揮者コンクール参加を助けてくれたアメリカ大使館員。師事した偉大な指揮者ミュンシュ、バーンスタイン、そしてカラヤン。
○ 1962年N響の小澤征爾ボイコット事件で、彼が落ち込んでいた時三島由紀夫、浅利慶太、石原慎太郎、井上靖、團伊玖磨、黛敏郎、大江健三郎、一柳慧など錚々たる文化人たちが日比谷公会堂で「小澤征爾の音楽を聴く会」を開いてバックアップしてくれた。
○ ラヴィニア音楽祭に紹介した敏腕マネージャーのウィルフォード。小澤を音楽監督に指名したトロント響、サンフランシスコ響、ボストン響のマネージャーや役員たち。
○ 1992年、小澤征爾の兄貴分とも言えるムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(愛称スラヴァ)の進言でN響の指揮を取り正式の和解が成立した。
○ サイトウ・キネン・オーケストラを支援したスポンサー会社。ウィーン国立歌劇場のホーレンダー総監督などなど。
中でも食道がんの闘病生活の支えとなった家族の力は大きい。これほど周囲の人々に恵まれた音楽家がほかにいるだろうか。
○ 小澤征爾という音楽家の原点は人を引き寄せる魅力ある人間性であることを改めて実感した。
「おわらない音楽」というタイトルは、音楽の怖さ、難しさ、奥の深い魅力を暗示しているように思う。

「桂米朝 私の履歴書」を読む。 上方落語の復興に尽力し、1996年に人間国宝、2009年に文化勲章を授章した桂米朝師匠(1925-2015 享年89歳)の自伝である。元々、日本経済新聞の「私の履歴書」として平成13年に連載されたものを元に原稿用紙百数十枚分を書き足して作成された。 ○ 落語作家小佐田定雄さんの言葉「米朝と言う人は上方落語を復興するために天から遣わされたのではないか。」 ○ 柔らかで品のある語り口を反映した文章で、読んでいてどこか爽やかな印象を受ける。 ○ 第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興への功績から「上方落語中興の祖」と言われる。 ○ 1950年に五代目笑福亭松鶴が死去。師匠の桂米団治も1951年に死去。さらに立花家花橘、二代目林家染丸、二代目桂春団治も死去。元々細々と継承され人気でも漫才に押され気味だった上方落語は、今度こそ滅んだと言われた。 ○ そんな中、米朝は発奮する。「宝塚落語会」の発足。民間放送の普及に乗ってトーク役で起用され、知名度と人気を得る。「上方落語会」の結成。朝日放送との専属契約。上方落語復興の努力とネタの復活。「珍しい上方落語を聴く会」や雑誌「上方風流」。東京新宿紀伊国屋ホールで独演会。大作「地獄八景亡者戯」。サンケイホール独演会。各地で満員の観客を集め、とうとうオーケストラの指揮者にまで引っ張り出される感激の物語です。

「桂米朝 私の履歴書」を読む。
上方落語の復興に尽力し、1996年に人間国宝、2009年に文化勲章を授章した桂米朝師匠(1925-2015 享年89歳)の自伝である。元々、日本経済新聞の「私の履歴書」として平成13年に連載されたものを元に原稿用紙百数十枚分を書き足して作成された。
○ 落語作家小佐田定雄さんの言葉「米朝と言う人は上方落語を復興するために天から遣わされたのではないか。」
○ 柔らかで品のある語り口を反映した文章で、読んでいてどこか爽やかな印象を受ける。
○ 第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興への功績から「上方落語中興の祖」と言われる。
○ 1950年に五代目笑福亭松鶴が死去。師匠の桂米団治も1951年に死去。さらに立花家花橘、二代目林家染丸、二代目桂春団治も死去。元々細々と継承され人気でも漫才に押され気味だった上方落語は、今度こそ滅んだと言われた。
○ そんな中、米朝は発奮する。「宝塚落語会」の発足。民間放送の普及に乗ってトーク役で起用され、知名度と人気を得る。「上方落語会」の結成。朝日放送との専属契約。上方落語復興の努力とネタの復活。「珍しい上方落語を聴く会」や雑誌「上方風流」。東京新宿紀伊国屋ホールで独演会。大作「地獄八景亡者戯」。サンケイホール独演会。各地で満員の観客を集め、とうとうオーケストラの指揮者にまで引っ張り出される感激の物語です。

7月26日NHKプレミアム英雄たちの選択琉球スペシャル第2弾「▽辺境の声を聞け!探検家・笹森儀助の挑戦」を見る。 ○ 私は今まで笹森儀助については何も知りませんでした。今回良い勉強になりました。 ○ 明治12年琉球藩は廃止され、沖縄県が誕生する。しかし、人々は、重い税と風土病に苦しんでいた。探検家・笹森儀助(1845~1915)は、沖縄の島々をめぐり、その窮状を世に訴えた。 ○ 笹森の報告は日本の近代化の意味を問う大きなインパクトを与えた。 探検家・笹森儀助は、青森県弘前の士族の家に生まれた。日本中を旅行し、北海道の千島探検の記録を出版して、天皇に奏上されるほど評価を得た。 日本各地を調査旅行をし、鹿児島県で西郷隆盛の墓に参り、西郷の私利私欲を捨てる態度に共感する。 これを契機に、時の内務大臣から、沖縄の調査を依頼され、沖縄探検に出発する。 ○ ハブとマラリアの地への決死の思いの旅だった。ところが、現地で、笹森が眼にしたものは、厳しい自然だけでなく、人頭税、という重い税に苦しむ人々の姿だった。 ○ 笹森と沖縄県代表者により先島、沖縄の人頭税が内務大臣・井上馨に訴え出られ、世論の後押しも受け第8回帝国議会において1903年(明治36年)廃止、日本本土と同様の地租に切り替えられた。 ○ その後笹森は奄美大島の島司に就任する。島司としては、糖業の振興と、島民が持っていた負債の償却に多く力を注いだが、業績の中で「最も快挙とすべき」と評されている

7月26日NHKプレミアム英雄たちの選択琉球スペシャル第2弾「▽辺境の声を聞け!探検家・笹森儀助の挑戦」を見る。
○ 私は今まで笹森儀助については何も知りませんでした。今回良い勉強になりました。
○ 明治12年琉球藩は廃止され、沖縄県が誕生する。しかし、人々は、重い税と風土病に苦しんでいた。探検家・笹森儀助(1845~1915)は、沖縄の島々をめぐり、その窮状を世に訴えた。
○ 笹森の報告は日本の近代化の意味を問う大きなインパクトを与えた。
探検家・笹森儀助は、青森県弘前の士族の家に生まれた。日本中を旅行し、北海道の千島探検の記録を出版して、天皇に奏上されるほど評価を得た。
日本各地を調査旅行をし、鹿児島県で西郷隆盛の墓に参り、西郷の私利私欲を捨てる態度に共感する。
これを契機に、時の内務大臣から、沖縄の調査を依頼され、沖縄探検に出発する。
○ ハブとマラリアの地への決死の思いの旅だった。ところが、現地で、笹森が眼にしたものは、厳しい自然だけでなく、人頭税、という重い税に苦しむ人々の姿だった。
○ 笹森と沖縄県代表者により先島、沖縄の人頭税が内務大臣・井上馨に訴え出られ、世論の後押しも受け第8回帝国議会において1903年(明治36年)廃止、日本本土と同様の地租に切り替えられた。
○ その後笹森は奄美大島の島司に就任する。島司としては、糖業の振興と、島民が持っていた負債の償却に多く力を注いだが、業績の中で「最も快挙とすべき」と評されている

2018年7月26日木曜日

「淑女失格 佐藤愛子」を読む。 ○ 作家・佐藤愛子の出生、生い立ち、文学修行、結婚、離婚、夫の事業の倒産、多額の借財、直木賞受賞。幾多の困難をユーモアと怒りで乗り越えてきた、波瀾万丈にして清々しい、女の履歴書である。 ○ 愛子さんは「怒りの愛子」と言うニックネームを持っているが、実に誠実な方である。 ○ 愛子さんは子供の頃は高い木があると登りたくなり、黒板を見ると落書きをしたくなる。掃除当番というとサボりたくなった。淑徳涵養を旨とする女学校で、人を驚かせることが大好きな「淑女失格」女学生の歩んだ凛々しお嬢さんだった。 ○ 父は小説家の佐藤紅緑、母・シナは元女優(芸名三笠万里子)であった。 愛子さんは父佐藤紅緑が50過ぎに生まれた女の子で父親に溺愛された。兄は詩人のサトウハチローさんである。 ○ 愛子さんは作家になって狐狸庵先生こと遠藤周作氏の知己を得て数々のユーモア溢れる指導を受けた。北杜夫さん、なだいなだ さん、川上宗薫さんとも同人誌の友人であった。

「淑女失格 佐藤愛子」を読む。
○ 作家・佐藤愛子の出生、生い立ち、文学修行、結婚、離婚、夫の事業の倒産、多額の借財、直木賞受賞。幾多の困難をユーモアと怒りで乗り越えてきた、波瀾万丈にして清々しい、女の履歴書である。
○ 愛子さんは「怒りの愛子」と言うニックネームを持っているが、実に誠実な方である。
○ 愛子さんは子供の頃は高い木があると登りたくなり、黒板を見ると落書きをしたくなる。掃除当番というとサボりたくなった。淑徳涵養を旨とする女学校で、人を驚かせることが大好きな「淑女失格」女学生の歩んだ凛々しお嬢さんだった。
○ 父は小説家の佐藤紅緑、母・シナは元女優(芸名三笠万里子)であった。
愛子さんは父佐藤紅緑が50過ぎに生まれた女の子で父親に溺愛された。兄は詩人のサトウハチローさんである。
○ 愛子さんは作家になって狐狸庵先生こと遠藤周作氏の知己を得て数々のユーモア溢れる指導を受けた。北杜夫さん、なだいなだ さん、川上宗薫さんとも同人誌の友人であった。

7月26日早朝JR 稲毛海岸駅前で千葉市美浜区選出の田畑直子さんにお目にかかりました。 田畑直子さんは自転車で美浜区内を走り市民の福祉の為努力されています。

7月26日早朝JR 稲毛海岸駅前で千葉市美浜区選出の田畑直子さんにお目にかかりました。
田畑直子さんは自転車で美浜区内を走り市民の福祉の為努力されています。

「世界史としての日本史 半藤一利 出口治明」を読む。 ○ 近年メディアを席巻する「日本特殊論」がある。しかし日本は本当に特別の国なのか。 世界史のなかに日本史を位置づければ、本当の歴史と日本人の姿が浮かび上がる。 ○ 世界史に造詣の深い出口氏と昭和史の碩学である半藤氏の対談である。私たちは謙虚に世界史の中の過去の日本史を考察しよう。 ○ 世界史の中の日本は強大な国ではない。むしろ、発展から取り残されていた辺境の小国列島であったかも知れない。 そして日本は明治維新で欧米に一気に近づこうとした国である。発展があまりにも急なので、歪みが多かった。 ○ 現代はグローバリゼーションの流れが世界中を流れている。その際に日本の立場が辺境の小国であったかも知れない過去を誠実に理解し、外国の歴史や文化を真摯に学ぶ姿勢がなければ再び世界の営みから弾き出されることや、搾取される立場になるかもしれない。無知はやめ、危機感を持たないといけないと考えるべきだ。 ○ 天皇と言う名称は中国に対抗するために創った名称であり、国内では明治維新になるまで殆ど使われていなかった。 ○ 「神風」と言う言葉は江戸時代から盛んに使わるようになった。 ○ 明治維新では薩長は尊皇攘夷を掲げたが、維新が成功すると、攘夷は捨てて尊皇だけ残した。 ○ 昭和の始まりと同じ時期にソ連のスターリン、ドイツのヒトラーが独裁権を掌握した。日独伊三国同盟は太平洋戦争への道を開いた。 ○ 太平洋戦争の起点はノモンハン事件である。

「世界史としての日本史 半藤一利 出口治明」を読む。
○ 近年メディアを席巻する「日本特殊論」がある。しかし日本は本当に特別の国なのか。
世界史のなかに日本史を位置づければ、本当の歴史と日本人の姿が浮かび上がる。
○ 世界史に造詣の深い出口氏と昭和史の碩学である半藤氏の対談である。私たちは謙虚に世界史の中の過去の日本史を考察しよう。
○ 世界史の中の日本は強大な国ではない。むしろ、発展から取り残されていた辺境の小国列島であったかも知れない。
そして日本は明治維新で欧米に一気に近づこうとした国である。発展があまりにも急なので、歪みが多かった。
○ 現代はグローバリゼーションの流れが世界中を流れている。その際に日本の立場が辺境の小国であったかも知れない過去を誠実に理解し、外国の歴史や文化を真摯に学ぶ姿勢がなければ再び世界の営みから弾き出されることや、搾取される立場になるかもしれない。無知はやめ、危機感を持たないといけないと考えるべきだ。
○ 天皇と言う名称は中国に対抗するために創った名称であり、国内では明治維新になるまで殆ど使われていなかった。
○ 「神風」と言う言葉は江戸時代から盛んに使わるようになった。
○ 明治維新では薩長は尊皇攘夷を掲げたが、維新が成功すると、攘夷は捨てて尊皇だけ残した。
○ 昭和の始まりと同じ時期にソ連のスターリン、ドイツのヒトラーが独裁権を掌握した。日独伊三国同盟は太平洋戦争への道を開いた。
○ 太平洋戦争の起点はノモンハン事件である。

2018年7月25日水曜日

「別冊太陽 円空 遊行と造仏の生涯」を読む。 この本では多くの円空仏が美しいカラー写真で見る事ができて感激です。 ○ 私は飾らない、素朴ない円空仏が大好きです。私は美術館で何回か円空仏を拝見しました。円空仏は素朴な慈愛の微笑を表していて、心の寧らぎです。私は円空の系譜は棟方志功に繋がっているように思う。 特別付録の円空筆「十六善神図」は棟方志功の版画を思わせる。 ○ 円空(1632~1695 享年64歳)は美濃(岐阜県)で生まれた、江戸時代前期の修験僧(廻国僧)・仏師・歌人。特に、各地に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫りの仏像を残したことで知られる。 円空は一説に生涯に約12万体の仏像を彫ったと推定され、現在までに約5,300体以上の像が発見されている。円空仏は全国に所在し、北は北海道・青森、南は三重県、奈良県までおよぶ。多くは寺社、個人所蔵がほとんどである。その中でも、岐阜県、愛知県をはじめとする各地には、円空の作品と伝えられる木彫りの仏像が数多く残されている。そのうち愛知県内で3,000体以上、岐阜県内で1,000体以上を数える。また、北海道、東北に残るものは初期像が多く、岐阜県飛騨地方には後期像が多い。多作だが作品のひとつひとつがそれぞれの個性をもっている。円空は木彫仏以外にも、多くの和歌や大般若経の扉絵なども残されている。

「別冊太陽 円空 遊行と造仏の生涯」を読む。
この本では多くの円空仏が美しいカラー写真で見る事ができて感激です。
○ 私は飾らない、素朴ない円空仏が大好きです。私は美術館で何回か円空仏を拝見しました。円空仏は素朴な慈愛の微笑を表していて、心の寧らぎです。私は円空の系譜は棟方志功に繋がっているように思う。
特別付録の円空筆「十六善神図」は棟方志功の版画を思わせる。
○ 円空(1632~1695 享年64歳)は美濃(岐阜県)で生まれた、江戸時代前期の修験僧(廻国僧)・仏師・歌人。特に、各地に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫りの仏像を残したことで知られる。
円空は一説に生涯に約12万体の仏像を彫ったと推定され、現在までに約5,300体以上の像が発見されている。円空仏は全国に所在し、北は北海道・青森、南は三重県、奈良県までおよぶ。多くは寺社、個人所蔵がほとんどである。その中でも、岐阜県、愛知県をはじめとする各地には、円空の作品と伝えられる木彫りの仏像が数多く残されている。そのうち愛知県内で3,000体以上、岐阜県内で1,000体以上を数える。また、北海道、東北に残るものは初期像が多く、岐阜県飛騨地方には後期像が多い。多作だが作品のひとつひとつがそれぞれの個性をもっている。円空は木彫仏以外にも、多くの和歌や大般若経の扉絵なども残されている。

「さすらいの唄 森繁久彌」を読む。 ○ この本は森繁久彌さん(1913~ 2009)の自叙伝です。 森繁 久彌さんは、俳優、歌手、コメディアンとして活躍されました。 NHKアナウンサーとなって満州国へ赴任。帰国後、舞台やラジオ番組の出演で次第に喜劇俳優として注目され、映画『三等重役』『社長シリーズ』『駅前シリーズ』で人気を博しました。非常に存在感のある俳優さんでした。 ○ 森繁久彌さんは大阪府枚方で生まれました。旧制北野中学から早稲田第一高等学院に進み、1934年に早稲田大学商学部へ進学。在学中は演劇研究部(略称:劇研)に所属し、先輩部員の山本薩夫や谷口千吉と共に活動する。 森繁久彌さんは自称「不良」でした。「不良」とは自由人の意味だそうです。当時は学生が喫茶店に入るのも映画館に入るのも「不良」でした。 ○ 森繁久彌はNHKから満州(中国東北部)に派遣され貴重な経験をされました。

「さすらいの唄 森繁久彌」を読む。
○ この本は森繁久彌さん(1913~ 2009)の自叙伝です。
森繁 久彌さんは、俳優、歌手、コメディアンとして活躍されました。
NHKアナウンサーとなって満州国へ赴任。帰国後、舞台やラジオ番組の出演で次第に喜劇俳優として注目され、映画『三等重役』『社長シリーズ』『駅前シリーズ』で人気を博しました。非常に存在感のある俳優さんでした。
○ 森繁久彌さんは大阪府枚方で生まれました。旧制北野中学から早稲田第一高等学院に進み、1934年に早稲田大学商学部へ進学。在学中は演劇研究部(略称:劇研)に所属し、先輩部員の山本薩夫や谷口千吉と共に活動する。
森繁久彌さんは自称「不良」でした。「不良」とは自由人の意味だそうです。当時は学生が喫茶店に入るのも映画館に入るのも「不良」でした。
○ 森繁久彌はNHKから満州(中国東北部)に派遣され貴重な経験をされました。

2018年7月24日火曜日

「トヨタ物語 野地秩嘉」を読む。 ○ 豊田佐吉・豊田喜一郎・石田退三・豊田英二・豊田章一郎・豊田章夫と続くトヨタの系譜は、奇跡とさえ思わせる。 ○トヨタ生産方式を書いた解説書は数多あるが、これほどその本質を的確に伝える書は無かった。 ○ 7年に及ぶ著者の取材は、それ自体が豊田イズムを体現した執筆姿勢だと感嘆する。 ○ トヨタ生産方式は、日本の他業種・アメリカ・中国等数百社に及んでいる。 その要諦は、他人にものを考えて貰って機械を使うことでなく、全て自分で考えて自分の頭を使うのである。考える人間をつくるシステムである。 ○ 若い指導員が、「私は、町工場の人たちに愛情を感じました。」と言った時であった。工場長大野は叱った。 「愛情?。よせ。そんな湿っぽい感情はいらん。余計なことは考えなくていい。それより仕事を楽しめ。」

「トヨタ物語 野地秩嘉」を読む。
○ 豊田佐吉・豊田喜一郎・石田退三・豊田英二・豊田章一郎・豊田章夫と続くトヨタの系譜は、奇跡とさえ思わせる。
○トヨタ生産方式を書いた解説書は数多あるが、これほどその本質を的確に伝える書は無かった。
○ 7年に及ぶ著者の取材は、それ自体が豊田イズムを体現した執筆姿勢だと感嘆する。
○ トヨタ生産方式は、日本の他業種・アメリカ・中国等数百社に及んでいる。
その要諦は、他人にものを考えて貰って機械を使うことでなく、全て自分で考えて自分の頭を使うのである。考える人間をつくるシステムである。
○ 若い指導員が、「私は、町工場の人たちに愛情を感じました。」と言った時であった。工場長大野は叱った。
「愛情?。よせ。そんな湿っぽい感情はいらん。余計なことは考えなくていい。それより仕事を楽しめ。」

「俳優になろうか 笠智衆」を楽しく読む ○ 私は俳優、笠智衆(1904~1993)さんの「飄々、ほのぼの」としたお人柄に魅了されます。 ○ この本は日本経済新聞の「私の履歴書」に掲載された記事を纏めたものであり小津安二郎作品への主演で有名な笠智衆さんの伝記です。 浄土真宗の寺に生まれ、継ぐことを嫌って放浪し、思いがけぬ採用された俳優の世界。俳優になってから一度寺の住職になるが、俳優に戻る。 ○ 長い不遇の時代をしぶとく生きて、いつのまにか松竹の看板俳優に。小津安二郎監督のみならず、清水宏、稲垣浩、木下恵介、山田洋次といった大監督達の名作に顔を出す。 ○ 大監督や俳優達のエピソードはどれも興味深いが、やはり小津監督との交流が興味深い。蓼科での合宿や九州旅行、白樺派との交際。映画の黄金期の余裕が感じられる、古き良き日本映画界の歴史が丁寧に語られる。その語り口は、映画の中での役柄そのままの、実直な人柄が感じられる。

「俳優になろうか 笠智衆」を楽しく読む
○ 私は俳優、笠智衆(1904~1993)さんの「飄々、ほのぼの」としたお人柄に魅了されます。
○ この本は日本経済新聞の「私の履歴書」に掲載された記事を纏めたものであり小津安二郎作品への主演で有名な笠智衆さんの伝記です。
浄土真宗の寺に生まれ、継ぐことを嫌って放浪し、思いがけぬ採用された俳優の世界。俳優になってから一度寺の住職になるが、俳優に戻る。
○ 長い不遇の時代をしぶとく生きて、いつのまにか松竹の看板俳優に。小津安二郎監督のみならず、清水宏、稲垣浩、木下恵介、山田洋次といった大監督達の名作に顔を出す。
○ 大監督や俳優達のエピソードはどれも興味深いが、やはり小津監督との交流が興味深い。蓼科での合宿や九州旅行、白樺派との交際。映画の黄金期の余裕が感じられる、古き良き日本映画界の歴史が丁寧に語られる。その語り口は、映画の中での役柄そのままの、実直な人柄が感じられる。