2016年7月2日土曜日

石田三成の重臣「島左近」(1540〜1600)の書状2通発見、島左近は外交官だった。 島左近が記した、戦国大名佐竹義宣の重臣小貫氏宛ての書状 戦国武将、石田三成の腹心だった島左近が記した書状2通が初めて見つかり、東京大史料編纂所と長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)が1日までに発表した。  豊臣秀吉が「三成に 過ぎたるものが二つあり 島の左近と 佐和山の城」と評価するほどの人物だったが関係史料は少なく、同博物館の太田浩司館長は「島左近の動向や実像に迫ることができる画期的な発見」と話している。  2通は、いずれも天正18(1590)年7月に書かれていた。秀吉が小田原北条氏を滅ぼした後に、秀吉に従うことになった常陸(茨城県)の戦国大名佐竹氏との交渉に島が当たっていたことが分かるという。

石田三成の重臣「島左近」(1540〜1600)の書状2通発見、島左近は外交官だった。
島左近が記した、戦国大名佐竹義宣の重臣小貫氏宛ての書状 戦国武将、石田三成の腹心だった島左近が記した書状2通が初めて見つかり、東京大史料編纂所と長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)が1日までに発表した。
 豊臣秀吉が「三成に 過ぎたるものが二つあり 島の左近と 佐和山の城」と評価するほどの人物だったが関係史料は少なく、同博物館の太田浩司館長は「島左近の動向や実像に迫ることができる画期的な発見」と話している。
 2通は、いずれも天正18(1590)年7月に書かれていた。秀吉が小田原北条氏を滅ぼした後に、秀吉に従うことになった常陸(茨城県)の戦国大名佐竹氏との交渉に島が当たっていたことが分かるという。

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