2016年7月1日金曜日

6月30日NHKBSプレミアム英雄たちの選択「政権誕生の地・なぜ家康は選んだか」を見る。 徳川家康は日本の中心として「江戸〜東京」に400年以上政治的首都となる土地を選んだ。 だが家康が入国した当時の江戸は関東の空白地帯であり、沼地ばかりの寒村に過ぎなかった。 家康はそんな江戸に城を築き、徳川将軍3代47年の歳月をかけて都市機能を完成させた。 家康が東海5か国から関東8か国に移封されたのは、天正18年(1590年)の小田原合戦の時。関白・豊臣秀吉に命じられたのが契機とされる。 実はこの時、新たな領国支配の拠点として家康には3つの選択肢があった。ひとつは関東の覇者・後北条氏の居城「小田原」をそのまま拠点とするか、あるいは鎌倉時代以降「武家の古都」として完成されていた「鎌倉」か、それとも田舎町に過ぎない「江戸」か。他の2つの候補地に比べ、圧倒的に不利な条件の江戸の選地であるが、近年の研究によれば、当時の江戸は単なる寒村ではなく、太平洋海運の湊としての機能がある。家康が江戸を選んだのは、未だ開発されていない関東地方の将来性と海運に未来を展望したからである。

6月30日NHKBSプレミアム英雄たちの選択「政権誕生の地・なぜ家康は選んだか」を見る。
徳川家康は日本の中心として「江戸〜東京」に400年以上政治的首都となる土地を選んだ。
だが家康が入国した当時の江戸は関東の空白地帯であり、沼地ばかりの寒村に過ぎなかった。
家康はそんな江戸に城を築き、徳川将軍3代47年の歳月をかけて都市機能を完成させた。
家康が東海5か国から関東8か国に移封されたのは、天正18年(1590年)の小田原合戦の時。関白・豊臣秀吉に命じられたのが契機とされる。
実はこの時、新たな領国支配の拠点として家康には3つの選択肢があった。ひとつは関東の覇者・後北条氏の居城「小田原」をそのまま拠点とするか、あるいは鎌倉時代以降「武家の古都」として完成されていた「鎌倉」か、それとも田舎町に過ぎない「江戸」か。他の2つの候補地に比べ、圧倒的に不利な条件の江戸の選地であるが、近年の研究によれば、当時の江戸は単なる寒村ではなく、太平洋海運の湊としての機能がある。家康が江戸を選んだのは、未だ開発されていない関東地方の将来性と海運に未来を展望したからである。

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