2018年6月24日日曜日

「指揮官たちの特攻 城山三郎」を読む。 ○ 特攻隊を美化してはならない。最初の特攻隊員 関行夫大尉の言葉、最後の特攻隊員 中津留達雄大尉の行動を深く思う。 ○ 関行夫大尉は昭和19年10月25日、最初の特攻隊としてレイテ島沖で米艦隊に突撃した。 ○ 関行夫大尉の最後の言葉 「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある。僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛の妻のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。」 ○ 中津留達雄大尉は昭和20年8月15日夕刻、昭和天皇の終戦勅令の後、宇垣纏中将の命令で沖縄へと飛び立ち、そのまま還らぬ人となった ○昭和20年8月15日正午、全日本国軍の降伏とポツダム宣言の受諾を伝える昭和天皇の玉音放送が発せられる。これを受けて宇垣纏中将は「未だ停戦命令に接せず。」と強弁し特攻隊の出撃を命令する。既に終戦の勅令の後の軍事行為は許される事でない。 宇垣纏中将は中津留大尉の操縦する彗星43型に搭乗する。彗星43型は2人乗りだが、遠藤秋章飛曹長が交代を拒否したため、宇垣、中津留、遠藤の3人が乗ることになった。 特攻隊は合計11機23名(途中3機が不時着、5名生存)。 宇垣機からは訣別電があり、続いて「敵空母見ユ」「ワレ必中突入ス」を最後に連絡は途絶えた。アメリカ軍に被害はなく、宇垣の特攻隊は確認もされておらず、沖縄付近の海面に墜落したものと思われる。この特攻隊による死者は宇垣を含め18名である。 ○ 関大尉は新婚三ヶ月余り、中津留大尉は長女誕生直後の特攻となる。 ○ 戦中は軍神の母と崇められながらも、戦後は、一転、家に石を投げ込まれ、山中の小学校の用務員として生涯を終えた関大尉の母や、息子の分まで、と百歳まで生きた中津留大尉の父の戦後の生きざまも印象深かった。 ○ 一方で、「桜花」をはじめ次々と開発される特攻兵器、「きさまらの、代わりは一厘五銭で、いくらでも来る」とうそぶく上官、暴力がまん延する海軍内部の荒廃ぶりには怒りさえわいてきた。

「指揮官たちの特攻 城山三郎」を読む。
○ 特攻隊を美化してはならない。最初の特攻隊員 関行夫大尉の言葉、最後の特攻隊員 中津留達雄大尉の行動を深く思う。
○ 関行夫大尉は昭和19年10月25日、最初の特攻隊としてレイテ島沖で米艦隊に突撃した。
○ 関行夫大尉の最後の言葉 「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある。僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛の妻のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。」
○ 中津留達雄大尉は昭和20年8月15日夕刻、昭和天皇の終戦勅令の後、宇垣纏中将の命令で沖縄へと飛び立ち、そのまま還らぬ人となった
○昭和20年8月15日正午、全日本国軍の降伏とポツダム宣言の受諾を伝える昭和天皇の玉音放送が発せられる。これを受けて宇垣纏中将は「未だ停戦命令に接せず。」と強弁し特攻隊の出撃を命令する。既に終戦の勅令の後の軍事行為は許される事でない。
宇垣纏中将は中津留大尉の操縦する彗星43型に搭乗する。彗星43型は2人乗りだが、遠藤秋章飛曹長が交代を拒否したため、宇垣、中津留、遠藤の3人が乗ることになった。
特攻隊は合計11機23名(途中3機が不時着、5名生存)。
宇垣機からは訣別電があり、続いて「敵空母見ユ」「ワレ必中突入ス」を最後に連絡は途絶えた。アメリカ軍に被害はなく、宇垣の特攻隊は確認もされておらず、沖縄付近の海面に墜落したものと思われる。この特攻隊による死者は宇垣を含め18名である。
○ 関大尉は新婚三ヶ月余り、中津留大尉は長女誕生直後の特攻となる。
○ 戦中は軍神の母と崇められながらも、戦後は、一転、家に石を投げ込まれ、山中の小学校の用務員として生涯を終えた関大尉の母や、息子の分まで、と百歳まで生きた中津留大尉の父の戦後の生きざまも印象深かった。
○ 一方で、「桜花」をはじめ次々と開発される特攻兵器、「きさまらの、代わりは一厘五銭で、いくらでも来る」とうそぶく上官、暴力がまん延する海軍内部の荒廃ぶりには怒りさえわいてきた。

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