「戦国おもてなし時代 信長・秀吉の接客術 金子拓」を読む。
私たちは2020年オリンピックを控え「おもてなし」を先人の知恵に学ぼうとする書である。
○ 日本人に脈々と受け継がれてきた「おもてなし」の精神は、いかにして培われてきたのか。
○ 「おもてなし」の原風景は竜宮城における乙姫様の浦島太郎への「おもてなし」である。また日本史で最も「おもてなし」が顕著であった時代は16世紀である。
○ 本書では、「御成記」や「茶会記」、キリスト教宣教師の記録、寺社の算用状、公家の日記など多様な史料から、中世の貴顕の「おもてなし」のかたちを探ります。
「信長のお城自慢」「秀吉の華麗なる贈り物」など、天下人の接待や贈答の実際も紹介すされる。年
われわれ現代人の感覚にも通じる先人たちの「おもてなし」を史料から読み解く。この書は月刊『なごみ』2016年連載の単行本化である。
○ 16世紀は室町幕府が衰退のきざしを見せ、戦国大名たちが独立した権力をふるいだし、そのなかから織田信長・豊臣秀吉といった「おもてなしの達人」の天下人を輩出した。
○ 戦国武将屈指の「もてなし、もてなされ」武将として細川幽斎を挙げている。次々と主君を変えながら江戸時代を大大名として生き残った細川家には幽斎から脈々と流れたこの「おもてなし」のDNAがあったかも知れない。
○ また島津家久は明智光秀の招待で琵琶湖にての舟遊びが紹介されていた。織田信長はあの安土城を提灯でライトアップしたそうである。見物客は唖然としたに相違ない。
○ 豊臣秀吉は天下人が確定した天正15年(1587年)にはあの有名な北野大茶湯を開催、身分の区別なく招待している。
○ 湯漬は現代のお茶漬けと異なり「おもてなし」の中でも最高級に位置することを宣教師 ロドリーゲスの「日本教会史」を引用して紹介している。
○ 「かわらけ」は素焼きの土器で宴会用の盃である。一度使用したら再利用されず廃棄された。一乗谷の朝倉氏居館跡の裏山から256㎏の「かわらけ」の山が出土された。恐らく朝倉義景が足利義昭を接待した時使用の「かわらけ」も随分含まれていることだろう。
○ かわらけ使用を改めたのは織田信長である。彼は「かわらけ」使用のかわりに陶磁器・漆器を利用した。当然の「かわらけ」は廃れた。信長は戦の在り方ばかりでなく、おもてなしの文化も変えた武将なのだ。
○ おめでたいことばかりではない。「おもてなし」は謀略に利用したこともあった。
嘉吉元年(1441年)室町幕府第6代将軍、足利義教は東国の結城合戦収束のお祝いで赤松満祐の自邸に招待された。宴の最中に満祐により弑逆された。世に言う嘉吉の乱である。
2018年5月11日金曜日
「戦国おもてなし時代 金子拓」
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