「劇画ヒットラー 水木しげる」を読む。
○ 水木氏は、本作品を描くに当たって、30を越える文献を参照されている。
本作品が発表されたのが1971年で、映画「ヒトラー 最期の12日間」(2004年)を視聴すると、本作品の描写の精密性・正確性に驚かされる。
○ 水木氏は知っているのに知らぬふり、見えているのに見えぬふり、そうして流されるままに無為無策に生きてきた結果が、ヒットラーを生んだと「断罪」を発っする。この警告をを逃れ得る者は存在するのだろうか。水木氏は私たちにも警告を発しているのだ。
○ 青年ヒットラーはオーストリア・ウィーンで芸術的画家を目指し、美術学校を受験するも2回連続で不合格。
母親が残してくれた僅かばかりの遺産を食いつぶしながら、下宿を転々と替え、遂に最下等の下宿の代金が払えず、公園のベンチで寝起きする浮浪者と化す。しかし、ヒットラーは一向に働こうとせず、働いたとしても長続きしなかった。
ウィーンの冬は寒く、公園のベンチ暮らしに耐えられなくなったヒットラーは国立浮浪者収容所に身を寄せる。ヒットラーは孤児恩給の支給があったため、取りあえず1日3度のパンにはありつけたが、相変わらず働こうとしないばかりか、
○ オーストリア政府の再三の徴兵検査の受検要請をも無視したため、ドイツ・ミュンヘンで官憲に捕らえられ、ようやく徴兵検査を受けるものの、栄養失調により不合格。
ヒットラーに言わせると、オーストリアの徴兵検査を忌避し続けた理由は、ハプスブルグ王朝(オーストリア、ハンガリー)の一兵卒になるなど真っ平御免で、祖国ドイツのためなら、喜んで一兵卒となる、というのである。
○ 第一次大戦が勃発し、ドイツが宣戦布告するや否や、ヒトラーは、志願兵として兵隊の訓練を三か月受けたのち、出征し、6年間軍人として過ごした。
「軍人」を職業と呼ぶとするなら、ヒットラーは、ようやく「天職」を見い出したと言える。
○ 第一次大戦で英国が使用した毒ガスにより、一時的に視力を失ったヒットラーは、ドイツ敗戦の知らせを、病院で聞いた。
ヒトラーは涙を流しながら、政治家となり、祖国ドイツに、その身を捧げる決意を固めるのであった。
○ ヒトラーがワーグナーを好んで聴いていたという話は聞いていたが、彼がワーグナーの曲を全て暗記し、彼が機嫌がいいときは、口笛でワーグナーの曲を吹いてみせたという逸話は、全く知らなかった。
ヒットラーが溺愛していた姪が自害し、その衝撃から、彼は肉食を断ち、菜食主義者となったとされる。
○ ヒットラーが弱小政党「ドイツ労働者党」の7番目の委員となってから、首相となり、大統領となり、遂には総統に至るまでの道程は、決して平坦なものではなく、クーデター、逮捕、投獄、粛清、そして何よりも彼の周りには常に「貧困」がつきまとっている。
○ 水木氏による突撃隊(S.A)の構成員の解説が秀逸で、その一部を要約しながら披露すると、
「父親を第一次大戦で失い、母子家庭で育ち、やっと一人前になる頃には、世界恐慌による就職難が待ち構えていて、生きる希望を失い、同じように世の中を恨んでいる仲間を突撃隊の構成員に見い出した人が多かった。」というのである。
○ 第一次大戦で敗戦国となったドイツに対し、連合国によって課せられた賠償金は、実に1,300億マルク。その上、世界恐慌が覆いかぶさってきたから堪らない。
パン屋のショーウインドーには「パン一斤 一兆マルク」と貼り紙されている。
○ なぜヒットラーの独裁政権が民主主義の決まりを守りながら成立し得たのか。
今まで誰彼なく、何度となく、発せられた疑問である。私たちにも「警告」を発しているのだ。本書では、その問いに対して、極めて控え目ながら、こう答えている。 「全権委任法」が、多数決によって可決成立したから。」。
全権委任法は、当時のワイマール憲法よりも法的拘束力が強く、内閣があらゆる法律を国会の採決なしに制定できるという、
前代未聞の法律であり、この法律によって国会は形骸化し、議会制民主主義が雲散霧消し、ナチス以外の政党もまた、消滅させられてしまったのだ。
○ やがてヒットラーは自分が軍事天才と過信しヨーロッパ全土征服を試み、イギリスとソ連と二面戦争に突入し敗北し自殺する。
2018年5月9日水曜日
「劇画ヒットラー 水木しげる」を読む。 ○ 水木氏は、本作品を描くに当たって、30を越える文献を参照されている。 本作品が発表されたのが1971年で、映画「ヒトラー 最期の12日間」(2004年)を視聴すると、本作品の描写の精密性・正確性に驚かされる。 ○ 水木氏は知っているのに知らぬふり、見えているのに見えぬふり、そうして流されるままに無為無策に生きてきた結果が、ヒットラーを生んだと「断罪」を発っする。この警告をを逃れ得る者は存在するのだろうか。水木氏は私たちにも警告を発しているのだ。 ○ 青年ヒットラーはオーストリア・ウィーンで芸術的画家を目指し、美術学校を受験するも2回連続で不合格。 母親が残してくれた僅かばかりの遺産を食いつぶしながら、下宿を転々と替え、遂に最下等の下宿の代金が払えず、公園のベンチで寝起きする浮浪者と化す。しかし、ヒットラーは一向に働こうとせず、働いたとしても長続きしなかった。 ウィーンの冬は寒く、公園のベンチ暮らしに耐えられなくなったヒットラーは国立浮浪者収容所に身を寄せる。ヒットラーは孤児恩給の支給があったため、取りあえず1日3度のパンにはありつけたが、相変わらず働こうとしないばかりか、 ○ オーストリア政府の再三の徴兵検査の受検要請をも無視したため、ドイツ・ミュンヘンで官憲に捕らえられ、ようやく徴兵検査を受けるものの、栄養失調により不合格。 ヒットラーに言わせると、オーストリアの徴兵検査を忌避し続けた理由は、ハプスブルグ王朝(オーストリア、ハンガリー)の一兵卒になるなど真っ平御免で、祖国ドイツのためなら、喜んで一兵卒となる、というのである。 ○ 第一次大戦が勃発し、ドイツが宣戦布告するや否や、ヒトラーは、志願兵として兵隊の訓練を三か月受けたのち、出征し、6年間軍人として過ごした。 「軍人」を職業と呼ぶとするなら、ヒットラーは、ようやく「天職」を見い出したと言える。 ○ 第一次大戦で英国が使用した毒ガスにより、一時的に視力を失ったヒットラーは、ドイツ敗戦の知らせを、病院で聞いた。 ヒトラーは涙を流しながら、政治家となり、祖国ドイツに、その身を捧げる決意を固めるのであった。 ○ ヒトラーがワーグナーを好んで聴いていたという話は聞いていたが、彼がワーグナーの曲を全て暗記し、彼が機嫌がいいときは、口笛でワーグナーの曲を吹いてみせたという逸話は、全く知らなかった。 ヒットラーが溺愛していた姪が自害し、その衝撃から、彼は肉食を断ち、菜食主義者となったとされる。 ○ ヒットラーが弱小政党「ドイツ労働者党」の7番目の委員となってから、首相となり、大統領となり、遂には総統に至るまでの道程は、決して平坦なものではなく、クーデター、逮捕、投獄、粛清、そして何よりも彼の周りには常に「貧困」がつきまとっている。 ○ 水木氏による突撃隊(S.A)の構成員の解説が秀逸で、その一部を要約しながら披露すると、 「父親を第一次大戦で失い、母子家庭で育ち、やっと一人前になる頃には、世界恐慌による就職難が待ち構えていて、生きる希望を失い、同じように世の中を恨んでいる仲間を突撃隊の構成員に見い出した人が多かった。」というのである。 ○ 第一次大戦で敗戦国となったドイツに対し、連合国によって課せられた賠償金は、実に1,300億マルク。その上、世界恐慌が覆いかぶさってきたから堪らない。 パン屋のショーウインドーには「パン一斤 一兆マルク」と貼り紙されている。 ○ なぜヒットラーの独裁政権が民主主義の決まりを守りながら成立し得たのか。 今まで誰彼なく、何度となく、発せられた疑問である。私たちにも「警告」を発しているのだ。本書では、その問いに対して、極めて控え目ながら、こう答えている。 「全権委任法」が、多数決によって可決成立したから。」。 全権委任法は、当時のワイマール憲法よりも法的拘束力が強く、内閣があらゆる法律を国会の採決なしに制定できるという、 前代未聞の法律であり、この法律によって国会は形骸化し、議会制民主主義が雲散霧消し、ナチス以外の政党もまた、消滅させられてしまったのだ。 ○ やがてヒットラーは自分が軍事天才と過信しヨーロッパ全土征服を試み、イギリスとソ連と二面戦争に突入し敗北し自殺する。
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