2016年11月29日火曜日

11月28日BSTBS「流転の王妃・愛新覚羅浩▽満州国滅亡、絶体絶命6000キロの逃避行 流転」を見る。 ○ 満州国は日本軍の傀儡国だった。皇帝愛新覚羅溥儀には子がいなかったので日本陸軍は次期皇帝を愛新覚羅溥傑さんと目論んだ。 ○ 愛新覚羅溥傑さんと嵯峨浩さんの1937年(昭和12年)2月6日、二人の婚約内定が満州国大使館から発表され、同年4月3日には東京の軍人会館(現九段会館)で結婚式が挙げられた。 お二人の新婚時代の家は私の家の近く、千葉市稲毛区浅間神社の横にあります。「ゆかりの家」として保存されています。今も中国の方が訪問されます。 ○ 1937年10月、二人は満州国の首都新京へ渡った。夫婦関係は円満で、翌1938年(昭和13年)には長女・慧生が誕生。翌年、溥傑が東京の駐日満州国大使館に勤務するため東京に戻り、翌1940年(昭和15年)には次女・嫮生が誕生。嫮生誕生後すぐに満州へと渡るが、1943年(昭和18年)に溥傑が陸軍大学校に配属されたため、再び東京に戻った。 ○ 1944年(昭和19年)12月、学習院初等科に在学していた長女の慧生を日本に残して、新京に戻った。 ○ 翌1945年(昭和20年)8月8日ソ連は対日参戦した。真っ先に満州国から逃亡したのは腐った日本軍陸軍幹部だった。 ○ 浩さん  たちは新京を攻められたため脱出し、6000Kmの流転をする。8月15日終戦を朝鮮との国境近くの大栗子(通化省臨江県)で迎えた。溥傑は溥儀の日本へ亡命する飛行機に同乗、浩は陸路で朝鮮に向かい、そこから海路で日本へ帰国することになった。 ○ しかし、満州国皇帝、愛新覚羅溥儀と弟の溥傑らは途中でソ連軍(赤軍)に拘束され。、浩たちのいた大栗子も危険となったため、臨江に逃れた。翌1946年(昭和21年)1月には、八路軍の手によって通化の八路軍公安局に連行され、通化事件に巻き込まれた。同年4月以降、長春(満州国時代の新京)、吉林、延吉、佳木斯へとつぎつぎに身柄を移され、同年7月に佳木斯で釈放された。 釈放後、1946年9月に葫芦島に至り、そこで日本への引揚船を待った。しかし、同地で国民党軍に身柄を拘束され、北京を経由して1946年12月に上海へと移された。同月、上海の拘束場所から田中徹雄(旧日本軍の元大尉、のちの山梨県副知事)の助けを得て脱出し、上海発の最後の引揚船に乗船して、翌1947年(昭和22年)1月に日本に帰国した。なお、上記の流転の日々から帰国までの間、次女の嫮生をずっと伴っていた。 ○ 日本に引揚げた後、父・嵯峨実勝が経営する町田学園の書道教師として生計を立てながら、日吉(神奈川県横浜市港北区)に移転した嵯峨家の実家で、2人の娘たちと生活した。一方、溥傑は、溥儀とともに撫順の労働改造所に収容され、長らく連絡をとることすらできなかった。1954年(昭和29年)、長女の慧生が、中華人民共和国国務院総理の周恩来に宛てて、「父に会いたい」と中国語で書いた手紙を出した。その手紙に感動した周恩来は、浩・慧生・嫮生と、溥傑との文通を認めた。 ○ 1957年(昭和32年)12月10日、学習院大学在学中の慧生が、交際していた同級生、大久保武道とピストル自殺した(天城山心中) 北京での第二の人生 1960年(昭和35年)に溥傑が釈放され、翌年、浩は中国に帰国して溥傑と15年ぶりに再会した。この後、浩は溥傑とともに、北京に居住した。北京に移住後、文化大革命(文革)が始まり、1966年(昭和41年)には二人の自宅が紅衛兵に襲われた。文革が下火になって以降、浩は1974年(昭和49年)、1980年(昭和55年)、1982年(昭和57年)、1983年(昭和58年)、1984年(昭和59年)の計5回、日本に里帰りしている。 ○ 1987年(昭和62年)6月20日、北京で死去した。1988年(昭和63年)、浩の遺骨は、山口県下関市の中山神社(祭神は浩の曾祖父中山忠光)の境内に建立された摂社愛新覚羅社に、慧生の遺骨とともに納骨された。 溥傑が死去した1994年(平成6年)、浩と慧生の遺骨は半分に分けられ、溥傑の遺骨の半分とともに愛新覚羅社に納骨された。浩と慧生の残る半分の遺骨は、溥傑の遺骨の半分とともに、中国妙峰山上空より散骨された。次女の嫮生は日本に留まって日本人と結婚、5人の子をもうけ、2012年(平成24年)現在、兵庫県西宮市に在住する。

11月28日BSTBS「流転の王妃・愛新覚羅浩▽満州国滅亡、絶体絶命6000キロの逃避行 流転」を見る。
○ 満州国は日本軍の傀儡国だった。皇帝愛新覚羅溥儀には子がいなかったので日本陸軍は次期皇帝を愛新覚羅溥傑さんと目論んだ。
○ 愛新覚羅溥傑さんと嵯峨浩さんの1937年(昭和12年)2月6日、二人の婚約内定が満州国大使館から発表され、同年4月3日には東京の軍人会館(現九段会館)で結婚式が挙げられた。
お二人の新婚時代の家は私の家の近く、千葉市稲毛区浅間神社の横にあります。「ゆかりの家」として保存されています。今も中国の方が訪問されます。
○ 1937年10月、二人は満州国の首都新京へ渡った。夫婦関係は円満で、翌1938年(昭和13年)には長女・慧生が誕生。翌年、溥傑が東京の駐日満州国大使館に勤務するため東京に戻り、翌1940年(昭和15年)には次女・嫮生が誕生。嫮生誕生後すぐに満州へと渡るが、1943年(昭和18年)に溥傑が陸軍大学校に配属されたため、再び東京に戻った。
○ 1944年(昭和19年)12月、学習院初等科に在学していた長女の慧生を日本に残して、新京に戻った。
○ 翌1945年(昭和20年)8月8日ソ連は対日参戦した。真っ先に満州国から逃亡したのは腐った日本軍陸軍幹部だった。
○ 浩さん  たちは新京を攻められたため脱出し、6000Kmの流転をする。8月15日終戦を朝鮮との国境近くの大栗子(通化省臨江県)で迎えた。溥傑は溥儀の日本へ亡命する飛行機に同乗、浩は陸路で朝鮮に向かい、そこから海路で日本へ帰国することになった。
○ しかし、満州国皇帝、愛新覚羅溥儀と弟の溥傑らは途中でソ連軍(赤軍)に拘束され。、浩たちのいた大栗子も危険となったため、臨江に逃れた。翌1946年(昭和21年)1月には、八路軍の手によって通化の八路軍公安局に連行され、通化事件に巻き込まれた。同年4月以降、長春(満州国時代の新京)、吉林、延吉、佳木斯へとつぎつぎに身柄を移され、同年7月に佳木斯で釈放された。
釈放後、1946年9月に葫芦島に至り、そこで日本への引揚船を待った。しかし、同地で国民党軍に身柄を拘束され、北京を経由して1946年12月に上海へと移された。同月、上海の拘束場所から田中徹雄(旧日本軍の元大尉、のちの山梨県副知事)の助けを得て脱出し、上海発の最後の引揚船に乗船して、翌1947年(昭和22年)1月に日本に帰国した。なお、上記の流転の日々から帰国までの間、次女の嫮生をずっと伴っていた。
○ 日本に引揚げた後、父・嵯峨実勝が経営する町田学園の書道教師として生計を立てながら、日吉(神奈川県横浜市港北区)に移転した嵯峨家の実家で、2人の娘たちと生活した。一方、溥傑は、溥儀とともに撫順の労働改造所に収容され、長らく連絡をとることすらできなかった。1954年(昭和29年)、長女の慧生が、中華人民共和国国務院総理の周恩来に宛てて、「父に会いたい」と中国語で書いた手紙を出した。その手紙に感動した周恩来は、浩・慧生・嫮生と、溥傑との文通を認めた。
○ 1957年(昭和32年)12月10日、学習院大学在学中の慧生が、交際していた同級生、大久保武道とピストル自殺した(天城山心中)
北京での第二の人生
1960年(昭和35年)に溥傑が釈放され、翌年、浩は中国に帰国して溥傑と15年ぶりに再会した。この後、浩は溥傑とともに、北京に居住した。北京に移住後、文化大革命(文革)が始まり、1966年(昭和41年)には二人の自宅が紅衛兵に襲われた。文革が下火になって以降、浩は1974年(昭和49年)、1980年(昭和55年)、1982年(昭和57年)、1983年(昭和58年)、1984年(昭和59年)の計5回、日本に里帰りしている。
○ 1987年(昭和62年)6月20日、北京で死去した。1988年(昭和63年)、浩の遺骨は、山口県下関市の中山神社(祭神は浩の曾祖父中山忠光)の境内に建立された摂社愛新覚羅社に、慧生の遺骨とともに納骨された。
溥傑が死去した1994年(平成6年)、浩と慧生の遺骨は半分に分けられ、溥傑の遺骨の半分とともに愛新覚羅社に納骨された。浩と慧生の残る半分の遺骨は、溥傑の遺骨の半分とともに、中国妙峰山上空より散骨された。次女の嫮生は日本に留まって日本人と結婚、5人の子をもうけ、2012年(平成24年)現在、兵庫県西宮市に在住する。

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