2016年11月25日金曜日

英雄たちの選択選「民を救え富士山大噴火」を見る。 江戸中期に起きた富士山の爆発的大噴火。降り積もる大量の火山灰によって一帯の村々は存亡の危機に立たされる。それに対し幕府の方針は被災民による自力復興というものだった。そうしたなか、復興の責任者に任命された幕府代官・伊奈忠順(?~1712)は現地を視察、飢えなどに苦しむ人々の実情を知る。このまま苦しむ民を見捨てていいのか。伊奈は幕府の方針と被災民との間で葛藤する。 ○ 宝永4年(1707年)11月に発生した富士山の噴火は実に620年ぶりの空前の大噴火で、現在も富士山の東南斜面に巨大な噴火口を残し、盛り上がった部分は宝永山と呼ばれる。約半月にも及んだ噴火により、小田原藩の全領約10万石のうち、6割が大量の火山灰に埋まり、遠く江戸でも2寸積もったという記録が残る大被害となる。 ○ 忠順はこの噴火に対し、砂除川浚(すなよけかわざらい)奉行と呼ばれる災害対策の最高責任者に任じられ、主に川底に火山灰が堆積していた酒匂川の砂除け、堤防修復などに従事した。しかし、もっとも被害の酷かった駿東郡足柄・御厨地方へ幕府の支援が一切行われず、59もの村が「亡所」とされ、放棄され飢餓に苦しむ者が続出している悲惨な状況となっていた。忠順は酒匂川の改修工事に被害農民を雇い入れることで生活の安定を図り、農地を回復させるための土壌改良にも取り組んだ。 ○忠順は駿府の米倉を独断で開き、飢えに苦しむ農民を救った。 忠順は復興開始から4年後、事業半ばで責任を取り切腹したと伝えられる。死去墓所は源長寺(現在の川口市)。 忠順の救済により救われた農民たちは、その遺徳を偲び慶応3年(1867年)に祠を建て、その後、須走村(現在の静岡県駿東郡小山町須走)に伊奈神社を建立し忠順の菩提を弔った。伊奈神社には忠順の像も立つ。大正時代になって忠順の業績を称えて従五位下に叙せられている。

英雄たちの選択選「民を救え富士山大噴火」を見る。
江戸中期に起きた富士山の爆発的大噴火。降り積もる大量の火山灰によって一帯の村々は存亡の危機に立たされる。それに対し幕府の方針は被災民による自力復興というものだった。そうしたなか、復興の責任者に任命された幕府代官・伊奈忠順(?~1712)は現地を視察、飢えなどに苦しむ人々の実情を知る。このまま苦しむ民を見捨てていいのか。伊奈は幕府の方針と被災民との間で葛藤する。
○ 宝永4年(1707年)11月に発生した富士山の噴火は実に620年ぶりの空前の大噴火で、現在も富士山の東南斜面に巨大な噴火口を残し、盛り上がった部分は宝永山と呼ばれる。約半月にも及んだ噴火により、小田原藩の全領約10万石のうち、6割が大量の火山灰に埋まり、遠く江戸でも2寸積もったという記録が残る大被害となる。
○ 忠順はこの噴火に対し、砂除川浚(すなよけかわざらい)奉行と呼ばれる災害対策の最高責任者に任じられ、主に川底に火山灰が堆積していた酒匂川の砂除け、堤防修復などに従事した。しかし、もっとも被害の酷かった駿東郡足柄・御厨地方へ幕府の支援が一切行われず、59もの村が「亡所」とされ、放棄され飢餓に苦しむ者が続出している悲惨な状況となっていた。忠順は酒匂川の改修工事に被害農民を雇い入れることで生活の安定を図り、農地を回復させるための土壌改良にも取り組んだ。
○忠順は駿府の米倉を独断で開き、飢えに苦しむ農民を救った。
忠順は復興開始から4年後、事業半ばで責任を取り切腹したと伝えられる。死去墓所は源長寺(現在の川口市)。
忠順の救済により救われた農民たちは、その遺徳を偲び慶応3年(1867年)に祠を建て、その後、須走村(現在の静岡県駿東郡小山町須走)に伊奈神社を建立し忠順の菩提を弔った。伊奈神社には忠順の像も立つ。大正時代になって忠順の業績を称えて従五位下に叙せられている。




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