2016年1月17日日曜日

1月17日、日曜美術館「藩を救った名画~“夷酋列像”蠣崎波響(かきざきはきょう)~」見る。 これは驚いた。初めて知った話です。蠣崎波響(1764〜1826)は円山応挙でしだ。 江戸時代の北海道に藩の危機を救ったアイヌの肖像画があった。描いたのは蠣崎波響だ。なんと家老にまでなった武士だ。写実的な描写に驚く。この絵からロシアの蝦夷地(北海道)への南下政策が見れる。アイヌ人たちの服装からロシア影響を見る事ができる。 この絵が生まれた背景には、当時の国際情勢もからんだ、松前藩の存亡がかかっていた。 今から32年前。フランスの美術館で蠣崎波響の傑作は見つかった。長い間、行方不明の幻の名画、「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」。アイヌの12人の有力者たちの肖像画だ。その細密な描写や鮮やかな色彩が評判を呼び、光格天皇にも称賛された。 寛政元年(1789年)のクナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)で松前藩に協力したアイヌの酋長を描いた『夷酋列像』(函館市中央図書館に2点所蔵。1980年代にフランスのブザンソン市立美術館で「夷酋列像」11点が発見)を翌年冬に完成させ、これらが後に代表作とされる。寛政3年(1791年)3月に同図を携え上洛、『夷酋列像』は京都で話題となり、光格天皇の天覧に供され、絵師波響の名は一時洛中で知られた。円山応挙につき、その画風を学び以後画風が一変する。文化4年(1807年)、幕府が北海道を直轄地にしたため、松前家は陸奥国伊達郡梁川藩に転封され、波響も梁川に移った。文政4年(1821年)、松前家が松前に復帰すると、波響も翌年松前に戻り、文政9年63歳で没した。

1月17日、日曜美術館「藩を救った名画~“夷酋列像”蠣崎波響(かきざきはきょう)~」見る。
これは驚いた。初めて知った話です。蠣崎波響(1764〜1826)は円山応挙でしだ。
江戸時代の北海道に藩の危機を救ったアイヌの肖像画があった。描いたのは蠣崎波響だ。なんと家老にまでなった武士だ。写実的な描写に驚く。この絵からロシアの蝦夷地(北海道)への南下政策が見れる。アイヌ人たちの服装からロシア影響を見る事ができる。
この絵が生まれた背景には、当時の国際情勢もからんだ、松前藩の存亡がかかっていた。
今から32年前。フランスの美術館で蠣崎波響の傑作は見つかった。長い間、行方不明の幻の名画、「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」。アイヌの12人の有力者たちの肖像画だ。その細密な描写や鮮やかな色彩が評判を呼び、光格天皇にも称賛された。
寛政元年(1789年)のクナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)で松前藩に協力したアイヌの酋長を描いた『夷酋列像』(函館市中央図書館に2点所蔵。1980年代にフランスのブザンソン市立美術館で「夷酋列像」11点が発見)を翌年冬に完成させ、これらが後に代表作とされる。寛政3年(1791年)3月に同図を携え上洛、『夷酋列像』は京都で話題となり、光格天皇の天覧に供され、絵師波響の名は一時洛中で知られた。円山応挙につき、その画風を学び以後画風が一変する。文化4年(1807年)、幕府が北海道を直轄地にしたため、松前家は陸奥国伊達郡梁川藩に転封され、波響も梁川に移った。文政4年(1821年)、松前家が松前に復帰すると、波響も翌年松前に戻り、文政9年63歳で没した。

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