2018年7月22日日曜日

「別冊太陽 西行」を読む。 ○ 西行(1118~1190 享年73)は法皇に待する北面の武士であったが23歳で決然と世を捨て、和歌の道を突き進む。彼の孤独を生きる力にして詠んだ渾身の和歌は、乱世の無常を通じて、不滅の芸術となった。 この本は多くの西行の足跡ゆかりのカラー写真を掲載しているので楽しく西行を学べる。西行の足跡を見ると、彼は歩く歌人であったようだ。 新古今和歌集には西行の和歌が最も多く選ばれている。 ○ 西行は出家後は洛外に草庵を結んで修行につとめ、一品経(いっぽんきょう)を勧進して藤原頼長を訪ねたりしたが、1144年(天養1年)ころ陸奥、出羽に旅して歌枕を訪ね、1149年(久安5年)前後には高野山に隠筒してしばしば吉野山に入った。  その間和歌に精進し、1151年(仁平1年)には《詞花和歌集》に1首入集、多くの歌人と交わったが、崇徳院、徳大寺実能、同公能、藤原成通らの死によって、しだいに公家社会から遠ざかった。  ○ 1168年(仁安3年)には四国へ修行の旅に出、讃岐国の崇徳院の白峰陵にもうでて院の怨霊を鎮め、さらに弘法大師の旧跡を訪ねた。その後、高野山の蓮花乗院を造営するための勧進を行い、同院の長日談義をはじめるなど、高野山の興隆のために活動した。  1180年(治承4年)には伊勢国に赴き、二見浦に草庵を結んで、和歌を通じて祀官の荒木田氏などと交わった。  ○ 1186年(文治2年)、伊勢を出て東大寺再建の勧進のために再び陸奥に赴いたが、その途中鎌倉で源頼朝に会い、弓馬のことを談じ和歌についても語った。  陸奥の旅から帰った西行は、京都の嵯峨に住み、1188年に成立した《千載和歌集》には18首が選ばれて、歌人として重んぜられるようになったが、1189年、河内国の弘川寺に居を定め、翌1190年(建久1年)の2月16日、弘川寺で73歳の生涯を閉じた。 

「別冊太陽 西行」を読む。
○ 西行(1118~1190 享年73)は法皇に待する北面の武士であったが23歳で決然と世を捨て、和歌の道を突き進む。彼の孤独を生きる力にして詠んだ渾身の和歌は、乱世の無常を通じて、不滅の芸術となった。
この本は多くの西行の足跡ゆかりのカラー写真を掲載しているので楽しく西行を学べる。西行の足跡を見ると、彼は歩く歌人であったようだ。
新古今和歌集には西行の和歌が最も多く選ばれている。
○ 西行は出家後は洛外に草庵を結んで修行につとめ、一品経(いっぽんきょう)を勧進して藤原頼長を訪ねたりしたが、1144年(天養1年)ころ陸奥、出羽に旅して歌枕を訪ね、1149年(久安5年)前後には高野山に隠筒してしばしば吉野山に入った。 
その間和歌に精進し、1151年(仁平1年)には《詞花和歌集》に1首入集、多くの歌人と交わったが、崇徳院、徳大寺実能、同公能、藤原成通らの死によって、しだいに公家社会から遠ざかった。 
○ 1168年(仁安3年)には四国へ修行の旅に出、讃岐国の崇徳院の白峰陵にもうでて院の怨霊を鎮め、さらに弘法大師の旧跡を訪ねた。その後、高野山の蓮花乗院を造営するための勧進を行い、同院の長日談義をはじめるなど、高野山の興隆のために活動した。 
1180年(治承4年)には伊勢国に赴き、二見浦に草庵を結んで、和歌を通じて祀官の荒木田氏などと交わった。 
○ 1186年(文治2年)、伊勢を出て東大寺再建の勧進のために再び陸奥に赴いたが、その途中鎌倉で源頼朝に会い、弓馬のことを談じ和歌についても語った。 
陸奥の旅から帰った西行は、京都の嵯峨に住み、1188年に成立した《千載和歌集》には18首が選ばれて、歌人として重んぜられるようになったが、1189年、河内国の弘川寺に居を定め、翌1190年(建久1年)の2月16日、弘川寺で73歳の生涯を閉じた。 

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