2018年8月4日土曜日

「生きるという贅沢 私の履歴書 淀川長治」を楽しく読む。 ○ 淀川長治さんの言葉 「私は、いまだかつて嫌いな人に会った事がない」「苦労来い」「他人歓迎」 淀川さんは子供のように沢山「びっくり」「感激」する人でした。  淀川長治さんは幸せな映画人生を送りました。生涯現役の人でした。 ○ 淀川長治さん(1909~1998 享年89歳)は神戸市生まれ。神戸三中卒業後、「映画世界」編集者を経て、ユナイテッドアーチスト日本支社入社。その後、同社宣伝部長、「映画の友」編集長などをつとめ、評論活動に。テレビ朝日の「日曜洋画劇場」では三十年以上も解説者を続け、映画ファンのみならずお茶の間の人気者でした。この自伝はユーモラスに綴る映画人生です。 ○ 淀川長治さんの言葉「映画は「嬉しいこと」をたくさんくれた。貧乏覚悟、家庭も持たぬ。「生涯を映画とともに」と誓い、生きてきました。」 ○ 淀川さんはチョーさん、ヨドさんの愛称のほか、サヨナラおじさんとして親しまれました。 ○ 4歳の頃から活動写真(映画)を見る。そう言えば私が子供の頃には明治生まれの人は映画の事を「カツドウ、カツロウ」なんて言っていましたっけ。淀川長治さんは幼稚園のころの先生に初恋をする。微笑ましいな。 東京に行き大学に入ったが学校に行かず映画雑誌「映画世界」の編集部に入る。 ○ 1929年に日本でトーキー映画が公開。淀川長治さんはトーキー映画にびっくり仰天する。アメリカの映画会社ユナイテッドアーチスト社の大阪支社の社員なった時、そこでチャールズ・チャップリンと一対一で42分間話しをして感激する。その後同社東京宣伝部に転勤し、「駅馬車」の他多くの洋画の宣伝をする。

「生きるという贅沢 私の履歴書 淀川長治」を楽しく読む。
○ 淀川長治さんの言葉
「私は、いまだかつて嫌いな人に会った事がない」「苦労来い」「他人歓迎」
淀川さんは子供のように沢山「びっくり」「感激」する人でした。
 淀川長治さんは幸せな映画人生を送りました。生涯現役の人でした。
○ 淀川長治さん(1909~1998 享年89歳)は神戸市生まれ。神戸三中卒業後、「映画世界」編集者を経て、ユナイテッドアーチスト日本支社入社。その後、同社宣伝部長、「映画の友」編集長などをつとめ、評論活動に。テレビ朝日の「日曜洋画劇場」では三十年以上も解説者を続け、映画ファンのみならずお茶の間の人気者でした。この自伝はユーモラスに綴る映画人生です。
○ 淀川長治さんの言葉「映画は「嬉しいこと」をたくさんくれた。貧乏覚悟、家庭も持たぬ。「生涯を映画とともに」と誓い、生きてきました。」
○ 淀川さんはチョーさん、ヨドさんの愛称のほか、サヨナラおじさんとして親しまれました。
○ 4歳の頃から活動写真(映画)を見る。そう言えば私が子供の頃には明治生まれの人は映画の事を「カツドウ、カツロウ」なんて言っていましたっけ。淀川長治さんは幼稚園のころの先生に初恋をする。微笑ましいな。
東京に行き大学に入ったが学校に行かず映画雑誌「映画世界」の編集部に入る。
○ 1929年に日本でトーキー映画が公開。淀川長治さんはトーキー映画にびっくり仰天する。アメリカの映画会社ユナイテッドアーチスト社の大阪支社の社員なった時、そこでチャールズ・チャップリンと一対一で42分間話しをして感激する。その後同社東京宣伝部に転勤し、「駅馬車」の他多くの洋画の宣伝をする。

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