2018年8月10日金曜日

「ぶらり日本史散策 半藤一利」を楽しく読む。 半藤一利さんの歴史こぼれ話60本の日本史エッセイ集。読み易くまた興味深い本である。半藤一利さんはあちらの史料からこちらの史料へとフットワークが軽く、疑問には探偵と化して調べあげる。 全て紹介できない。例を挙げよう。 ● 第一部は「昭和史巷談」 ○ ノモンハン事件におけるソ連戦車と日本戦車の比較。 ソ連の戦車の射程距離1500~2000m、日本の戦車の射程距700~800m。この戦争で日本戦車の60%が損耗した。それでも日本陸軍は勝ったと宣伝した。日本の歩兵は日本戦車を「豆腐」と酷評した。 ○「日の丸弁当」玄米か麦飯の弁当の真ん中に梅干一つ、ただそれだけの弁当。 ○ 特攻隊。大西 瀧治郎中将は神風特別攻撃隊の創始者である。 彼は「特攻は統率の外道の外道」と常に言っていた。この言葉と行動の矛盾はどうであろう。 ○ 「ペンが屈服したとき」太平洋戦争において多くの作家を占領地に派遣し軍礼賛の文章を書かせた。後世に残る作品は生まれなかった。これは全くの愚挙であった。 ○ 戦後「仮名、マッカーサー神社」建立の計画があった。発起人は最高裁判所長官田中耕一郎、朝日新聞社長長谷部忠、毎日新聞社社長本田親男、大映社長野村吉三郎等著名人であった。戦後のマッカーサー礼賛の最たる計画であった。実現しなくて良かった。 ○ 半藤一利氏は怒髪天をついて怒る。東京大空襲を指揮したアメリカ空軍ルメイ大将に「勲一等、旭日大授賞」が贈与された。決定したのは池田勇人総理大臣であった。 ● 第二部は「日本史閑話」 ○ 源頼朝は後白河法皇を「日本一の大天狗」と呼んだ。源頼朝の言う「大天狗」は政治的妖怪と言う意味だ。源頼朝もまた「大天狗」であった。 ○ 幕末の敗者たりし幕臣たちは、江戸から静岡に移住しお茶の栽培を行った。 ○ 日露戦争で騎兵隊を率い活躍した秋山好古は予備役になった後、故郷の予北中学校の校長になった。彼の人生訓は「人生は簡素明確であれ」であった。 ○ 石川啄木の「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ」この友たちとは盛岡中学校の友人らしい。

「ぶらり日本史散策 半藤一利」を楽しく読む。
半藤一利さんの歴史こぼれ話60本の日本史エッセイ集。読み易くまた興味深い本である。半藤一利さんはあちらの史料からこちらの史料へとフットワークが軽く、疑問には探偵と化して調べあげる。
全て紹介できない。例を挙げよう。
● 第一部は「昭和史巷談」
○ ノモンハン事件におけるソ連戦車と日本戦車の比較。
ソ連の戦車の射程距離1500~2000m、日本の戦車の射程距700~800m。この戦争で日本戦車の60%が損耗した。それでも日本陸軍は勝ったと宣伝した。日本の歩兵は日本戦車を「豆腐」と酷評した。
○「日の丸弁当」玄米か麦飯の弁当の真ん中に梅干一つ、ただそれだけの弁当。
○ 特攻隊。大西 瀧治郎中将は神風特別攻撃隊の創始者である。
彼は「特攻は統率の外道の外道」と常に言っていた。この言葉と行動の矛盾はどうであろう。
○ 「ペンが屈服したとき」太平洋戦争において多くの作家を占領地に派遣し軍礼賛の文章を書かせた。後世に残る作品は生まれなかった。これは全くの愚挙であった。
○ 戦後「仮名、マッカーサー神社」建立の計画があった。発起人は最高裁判所長官田中耕一郎、朝日新聞社長長谷部忠、毎日新聞社社長本田親男、大映社長野村吉三郎等著名人であった。戦後のマッカーサー礼賛の最たる計画であった。実現しなくて良かった。
○ 半藤一利氏は怒髪天をついて怒る。東京大空襲を指揮したアメリカ空軍ルメイ大将に「勲一等、旭日大授賞」が贈与された。決定したのは池田勇人総理大臣であった。
● 第二部は「日本史閑話」
○ 源頼朝は後白河法皇を「日本一の大天狗」と呼んだ。源頼朝の言う「大天狗」は政治的妖怪と言う意味だ。源頼朝もまた「大天狗」であった。
○ 幕末の敗者たりし幕臣たちは、江戸から静岡に移住しお茶の栽培を行った。
○ 日露戦争で騎兵隊を率い活躍した秋山好古は予備役になった後、故郷の予北中学校の校長になった。彼の人生訓は「人生は簡素明確であれ」であった。
○ 石川啄木の「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ」この友たちとは盛岡中学校の友人らしい。

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