8月15日BSTBS「にっぽん歴史鑑定、堀越二郎と坂井三郎」を見る。
○堀越二郎(1903〜1982)は零式戦闘機(零戦)の設計者だ。
堀越二郎の最も悲しかった事は零戦の神風特攻隊であった。
○堀越二郎は三菱航空機入社わずか5年で設計主任に大抜擢となり、1932年「七試艦上戦闘機」、1934年「九試艦上戦闘機」などの名機を次々と設計します。特に九試艦上戦闘機は日本製では初ともいえる世界水準の戦闘機であり、実践で活躍します。そして堀越二郎は世界の戦線で「姿を見たら逃げろ」とまで言われて恐れられた「十二試艦上戦闘機(後のゼロ戦)」を世に送り出します。
○坂井三郎(1916年〜2000)佐賀県生まれ。1933年、海軍入隊。戦艦霧島、榛名砲手を経て37年、霞ヶ浦海軍航空隊操縦練習生となり、首席で卒業。翌年の初陣以来、九六鑑戦、零戦の操縦士として200回以上の空戦に参加し、敵機64機を撃墜。ラバウル航空隊の俊英であった。
著書に世界的ベストセラーとなった「大空のサムライ」、「零戦の真実」「零戦の運命」などがある。
2016年8月15日月曜日
8月15日BSTBS「にっぽん歴史鑑定、堀越二郎と坂井三郎」を見る。 ○堀越二郎(1903〜1982)は零式戦闘機(零戦)の設計者だ。 堀越二郎の最も悲しかった事は零戦の神風特攻隊であった。 ○堀越二郎は三菱航空機入社わずか5年で設計主任に大抜擢となり、1932年「七試艦上戦闘機」、1934年「九試艦上戦闘機」などの名機を次々と設計します。特に九試艦上戦闘機は日本製では初ともいえる世界水準の戦闘機であり、実践で活躍します。そして堀越二郎は世界の戦線で「姿を見たら逃げろ」とまで言われて恐れられた「十二試艦上戦闘機(後のゼロ戦)」を世に送り出します。 ○坂井三郎(1916年〜2000)佐賀県生まれ。1933年、海軍入隊。戦艦霧島、榛名砲手を経て37年、霞ヶ浦海軍航空隊操縦練習生となり、首席で卒業。翌年の初陣以来、九六鑑戦、零戦の操縦士として200回以上の空戦に参加し、敵機64機を撃墜。ラバウル航空隊の俊英であった。 著書に世界的ベストセラーとなった「大空のサムライ」、「零戦の真実」「零戦の運命」などがある。
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