野口剛(91)さんは日本海軍の特攻兵器「桜花」を護衛する戦闘機搭乗員であった。野口さんはアメリカ軍戦闘機の攻撃を受けながら辛うじて帰還した。「桜花」は人間ロケットであった。
特攻隊は鹿児島の鹿屋基地を出発した。桜花作戦で失われた命は特攻による戦死と確認されているだけで430人に上った。桜花特攻隊の成果は駆逐艦1隻。
野口剛さんは今も戦死した兵に向い自分自身が生きていることを申し訳なく思い慚愧の念な苛まされる。
太平洋戦争末期、日本海軍が開発した特攻兵器「桜花」は、重さ1.2トンの大型爆弾を搭載し、1機で戦艦や空母をも撃沈できるとされた切り札だった。
桜花の搭乗員は一人。操縦席には高度計や速度計など最低限のものしかなく、着陸用の車輪もなかった。攻撃目標近くで爆撃機から投下され、グライダーのように滑空。加速するためのロケットを噴射し、操縦する人間もろとも目標に突入する。一度出撃したら必ず死に至る兵器だった。
桜花作戦を行う第721海軍航空隊は通称、神雷部隊と呼ばれた。桜花の搭乗員の多くは特攻作戦に志願してきた若者たちで、茨城県の神ノ池基地で訓練した後、多くは出撃拠点である鹿児島県・鹿屋基地に移り出撃命令を待った。
○ 昭和20(1945年)年3月21日。神雷部隊に初めての攻撃命令が下る。目標は九州の沖合を航行する米軍艦隊。野中五郎少佐が率いる攻撃隊の桜花15機と、それを運ぶ一式陸上攻撃機(一式陸攻)が出撃した。しかし桜花を積んだ一式陸攻は速度が落ち、護衛の戦闘機も十分ではなかった。攻撃隊は目標地点の110キロ手前で米軍機と遭遇。一式陸攻すべてが桜花とともに撃墜されてしまった。
その後、桜花作戦は10回にわたり行われ、4月12日には土肥三郎中尉が搭乗した桜花が米駆逐艦を撃沈した。桜花作戦によって撃沈した米艦艇はこの1隻のみで、出撃機の多くが目標にたどり着く前に撃墜された。
2016年8月16日火曜日
野口剛(91)さんは日本海軍の特攻兵器「桜花」を護衛する戦闘機搭乗員であった。野口さんはアメリカ軍戦闘機の攻撃を受けながら辛うじて帰還した。「桜花」は人間ロケットであった。 特攻隊は鹿児島の鹿屋基地を出発した。桜花作戦で失われた命は特攻による戦死と確認されているだけで430人に上った。桜花特攻隊の成果は駆逐艦1隻。 野口剛さんは今も戦死した兵に向い自分自身が生きていることを申し訳なく思い慚愧の念な苛まされる。 太平洋戦争末期、日本海軍が開発した特攻兵器「桜花」は、重さ1.2トンの大型爆弾を搭載し、1機で戦艦や空母をも撃沈できるとされた切り札だった。 桜花の搭乗員は一人。操縦席には高度計や速度計など最低限のものしかなく、着陸用の車輪もなかった。攻撃目標近くで爆撃機から投下され、グライダーのように滑空。加速するためのロケットを噴射し、操縦する人間もろとも目標に突入する。一度出撃したら必ず死に至る兵器だった。 桜花作戦を行う第721海軍航空隊は通称、神雷部隊と呼ばれた。桜花の搭乗員の多くは特攻作戦に志願してきた若者たちで、茨城県の神ノ池基地で訓練した後、多くは出撃拠点である鹿児島県・鹿屋基地に移り出撃命令を待った。 ○ 昭和20(1945年)年3月21日。神雷部隊に初めての攻撃命令が下る。目標は九州の沖合を航行する米軍艦隊。野中五郎少佐が率いる攻撃隊の桜花15機と、それを運ぶ一式陸上攻撃機(一式陸攻)が出撃した。しかし桜花を積んだ一式陸攻は速度が落ち、護衛の戦闘機も十分ではなかった。攻撃隊は目標地点の110キロ手前で米軍機と遭遇。一式陸攻すべてが桜花とともに撃墜されてしまった。 その後、桜花作戦は10回にわたり行われ、4月12日には土肥三郎中尉が搭乗した桜花が米駆逐艦を撃沈した。桜花作戦によって撃沈した米艦艇はこの1隻のみで、出撃機の多くが目標にたどり着く前に撃墜された。
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