8月5日BSTBS『「暮らしの手帖」大橋鎮子。戦後のスーパーウーマン93年の生涯』を見る。
NHKの朝の連続テレビ小説「とと姉ちゃん」(2016年度上半期放送)のヒロインである小橋常子のモデル・実在人物である、大橋鎭子さんは偉大な女性です。
大橋鎭子(大橋鎮子)さんは雑誌「暮しの手帖」を創刊した女性です。
1920年(大正9年)3月10日に東京で生また大橋鎭子は、1歳のときに父親の転勤で北海道に移り住みました。
しかし、やがて父が肺結核になり、病気療養の為東京に戻りましたが、小学5年生の頃に父が死去した。10歳の鎮子はあたかも戸主として家族を支える。
そして、母親ひとりの手で妹の大橋芳子と養育を受け、1937年に東京府立第六高等女学校(都立三田高等学校)を卒業すると、日本興業銀行(みずほ銀行の前身)に入行しました。
銀行では調査課に配属されましたが、学業への夢を捨てきれず、3年で退行すると日本女子大学に入学します。
しかし、在学中に肺結核となったため1年で学業を断念して、大学を中退し静養します。
そして、完治すると、田所太郎によって創刊されたばかりの日本読書新聞に入社したと言います。
この頃の日本は太平洋戦争の真っ最中で、物資も人材も不足しますが、一貫して編集部に所属します。
防空壕のなかでは、自分が見たい・知りたいと思うことを本にすれば、戦争で学校にも満足に行けなかった女性に喜んでもらえるだろうと考えていたと言います。
そして、戦後に日本読書新聞でカットの仕事をしていた花森安治と知り合いました。
大橋鎮子が務めていた編集部に、田所太郎が復員して編集長に復帰すると「雑誌を創刊してお金持ちになり、母や妹を幸せにしたい」と相談します。
このようにして、田所太郎から旧友であった花森安治を紹介されたと言う事になります。
こうして、自由に物を書く事が出来る世の中になり夢を実現するため、1946年(昭和21年)に、花森安治と大橋鎭子が「衣装研究所」を東京・銀座8丁目のビルの一室で設立し、大橋鎭子が社長に就任します。
そして、妹の大橋芳子の協力も得て、服飾の提案雑誌「スタイルブック」を創刊しました。
大橋鎮子の妹である横山晴子、大橋芳子も雑誌に協力しています。
途中からは高校で同級生だった中野家子も加わり、裁縫を手伝っています。
しかし、創刊号が大ヒットしたスタイルブックも、マネをされて同じような雑誌が30誌、40誌と相次いで創刊されたこともあり、が売れなくなったので、新しく婦人雑誌として「美しい暮しの手帖」の創刊をすることになったのです。
1948年(昭和23年)9月には、花森安治を編集長にした「美しい暮しの手帖」(のちの「暮しの手帖」)が創刊されると、これまた大ヒットし、1951年に社名を「暮しの手帖社」と改名しました。 なお、1953年(昭和28年)12月の22号から、日本の家庭向け総合生活雑誌となる「暮しの手帖」に変更され、経済成長とともに物が出回り始めたため、生活者の側に立って市販されている商品を中立的立場で安全性や品質などをテストした結果の記事は大変評判となります。
1956年(昭和31年)には、第4回菊池寛賞を受賞するなどし、1968年(昭和43年)からは、季刊(年4回)から隔月刊に変更されますが、一貫して広告は自社書籍のみで、企業からの広告は受けず、厳格な商品テストの公表は、製品メーカーにも大きな影響力を与えました。
大橋鎭子は、1969年からエッセイ「すてきなあなたに」の連載を開始し、このエッセイでは1994年ら第10回東京都文化賞を受賞しています。
1978年に、死の2日前まで編集を続けた花森安治が死去すると、大橋鎭子自身が編集長も兼務しましたが、2004年に社長を退いて、横山泰子が社長に就任すると、2007年には松浦弥太郎が編集長に迎えられて、時代に合った雑誌となり、商品テストの記事などは掲載が中止され、雑誌のスタイルも変更されました。
大橋鎮子は、2013年3月23日の午前8時37分に、肺炎のため東京都品川区の自宅で死去しました。93歳没。
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