2016年10月28日金曜日

三笠宮さまと親しかった三井武男さん(99)は10月27日崩御された三笠宮崇仁さまを偲ぶ。合掌。 ○ 三笠宮さまは皇族男子の義務として軍人として戦争を体験され、戦後はオリエント史の研究者として知られた。 三笠宮さまは「昭和」を体現する100歳の人生であられた。ゆかりの人たちは「自由で純粋な方だった」と人柄をしのぶ。 ○ お三笠宮さま逝去三笠宮崇仁さまは「温和で、必ず周りの話をきいてから、自分の考えを話す方だった」。 陸軍士官学校などを終えられた三笠宮さまが、千葉県の習志野騎兵第15連隊の中隊長になられたのは1938(昭和13)年、日中戦争が始まった翌年のこと。当時、同連隊に所属していた三井武男さん(99)=東京都八王子市=は三笠宮さまをこう振り返る。  一緒に当直勤務に就いた際は、休憩の時間に「ピンポンをやろう」と誘われ、三井さんが勝つと、売店からそばを取り寄せてくれたこともあった。 ○ 三笠宮さまはその後、中国・南京の支那派遣軍総司令部の参謀となられる。一方で三井さんも部隊を移り、中国大陸へ。ソ連軍と衝突し、日本軍だけで1万8千人が犠牲となったノモンハン事件を経験された。近代的な戦車を備えたソ連側の猛攻を、日本の騎馬部隊は周囲で見守るだけであった。三井さんは「聖戦と呼ばれたが、殺し合うことに何の意味があるのだろう」と感じた。 ○ 戦争の悲惨さや、中国大陸での日本軍の残虐行為について、三笠宮さまは戦後、率直に反省を語ったことで知られる。指導する側だった自身についても、「今もなお良心の呵責にたえない」(「古代オリエント史と私」)と記された。 ○ 三井さんたち騎兵連隊の将校経験者らでつくる親睦会には、三笠宮さまも出席していた。その場で戦争や政治の話に触れることはなかったが、直筆で平和の「和」という文字をしたためた色紙を会員に配られたことがあった。「和を尊び、平和な国にしたいという思いだったのでしょう。話をもっと聞きたかった。」

三笠宮さまと親しかった三井武男さん(99)は10月27日崩御された三笠宮崇仁さまを偲ぶ。合掌。
○ 三笠宮さまは皇族男子の義務として軍人として戦争を体験され、戦後はオリエント史の研究者として知られた。
三笠宮さまは「昭和」を体現する100歳の人生であられた。ゆかりの人たちは「自由で純粋な方だった」と人柄をしのぶ。
○ お三笠宮さま逝去三笠宮崇仁さまは「温和で、必ず周りの話をきいてから、自分の考えを話す方だった」。
陸軍士官学校などを終えられた三笠宮さまが、千葉県の習志野騎兵第15連隊の中隊長になられたのは1938(昭和13)年、日中戦争が始まった翌年のこと。当時、同連隊に所属していた三井武男さん(99)=東京都八王子市=は三笠宮さまをこう振り返る。
 一緒に当直勤務に就いた際は、休憩の時間に「ピンポンをやろう」と誘われ、三井さんが勝つと、売店からそばを取り寄せてくれたこともあった。
○ 三笠宮さまはその後、中国・南京の支那派遣軍総司令部の参謀となられる。一方で三井さんも部隊を移り、中国大陸へ。ソ連軍と衝突し、日本軍だけで1万8千人が犠牲となったノモンハン事件を経験された。近代的な戦車を備えたソ連側の猛攻を、日本の騎馬部隊は周囲で見守るだけであった。三井さんは「聖戦と呼ばれたが、殺し合うことに何の意味があるのだろう」と感じた。
○ 戦争の悲惨さや、中国大陸での日本軍の残虐行為について、三笠宮さまは戦後、率直に反省を語ったことで知られる。指導する側だった自身についても、「今もなお良心の呵責にたえない」(「古代オリエント史と私」)と記された。
○ 三井さんたち騎兵連隊の将校経験者らでつくる親睦会には、三笠宮さまも出席していた。その場で戦争や政治の話に触れることはなかったが、直筆で平和の「和」という文字をしたためた色紙を会員に配られたことがあった。「和を尊び、平和な国にしたいという思いだったのでしょう。話をもっと聞きたかった。」

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