2016年6月22日水曜日

『日本語を作った男――上田万年とその時代』を読む。 この書は明治時代後半に始まった日本語の言文一致運動史である。主導したのは上田万年(かずとし)(1867〜1937)である。言葉は生き物である。およそ100年で大きな変化をしていく。 当時、言文一致の賛成者は夏目漱石。反対者は森鴎外であった。 「我々が使う現代日本語は、明治時代も後半、およそ西暦1900年頃に作られた。いわゆる言文一致運動の産物である。自然に変化してこうなったものではなく、『作られた』日本語である。 漱石の弟子には小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平はじめ内田百閒、野上弥生子、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成、芥川龍之介、久米正雄などが顔を出していた。彼らがその後の『日本語』を作っていく。そして鷗外も、大正に入って以降は次第に、『言文一致』に近い日本語で、小説を発表するようになっていく」。 1お46年に当用漢字ならびに新仮名遣いの告示がなされたのは、万年が死去してから9年後のことでした。

『日本語を作った男――上田万年とその時代』を読む。
この書は明治時代後半に始まった日本語の言文一致運動史である。主導したのは上田万年(かずとし)(1867〜1937)である。言葉は生き物である。およそ100年で大きな変化をしていく。
当時、言文一致の賛成者は夏目漱石。反対者は森鴎外であった。
「我々が使う現代日本語は、明治時代も後半、およそ西暦1900年頃に作られた。いわゆる言文一致運動の産物である。自然に変化してこうなったものではなく、『作られた』日本語である。
漱石の弟子には小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平はじめ内田百閒、野上弥生子、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成、芥川龍之介、久米正雄などが顔を出していた。彼らがその後の『日本語』を作っていく。そして鷗外も、大正に入って以降は次第に、『言文一致』に近い日本語で、小説を発表するようになっていく」。
1お46年に当用漢字ならびに新仮名遣いの告示がなされたのは、万年が死去してから9年後のことでした。

0 件のコメント: