「トルコ軍艦エルトゥールル号の海難 オメル・エルトゥール」読む。
著者 オメル・エルトゥール氏の夫人は日本人小弓さんは著述の正確を期するた協力された。この海難救事件は日本・トルコ親交の原点である。
1890(明治23)年9月、本州最南端の和歌山県串本町沖で、惨憺(さんたん)たる海難事件が起こった。
オスマントルコ帝国のエミン少将を司令官とする優美な大型木造巡洋艦エルトゥールル号が、コンスタンティノープルからの11か月の長い航海を経て、横浜港に到着したのはその年の6月だった。来航目的は、両国間の通商条約と軍事協定の正式締結であった。
9月15日、日本の艦隊の見送りを受けて艦は穏やかな横浜港から出帆する。翌16日払暁、突如、台風の襲来。串本町の樫野崎沖で、強風に翻弄された軍艦は、岩礁に激突してばらばらに砕け、乗組員全員が海に投げ出される。事件を察知した灯台守の呼びかけに、真夜中にもかかわらず、言葉も事情も分からないまま、近隣の村民たちが総出で必死の救助活動を行った。生存者は69人で、死者不明者は500人以上に達した。10月に、幸運な生存者と膨大な遺品は日本の軍艦、比叡と金剛に乗って離日し、翌年1月、コンスタンティノープルへ帰還を果たした。本書はトルコ人の著者がこの事件を丹念に描いた歴史小説である。
村人たちの冷静な判断と勇敢な行動。明治天皇の総指揮の下、水死者の丁寧な埋葬、慰霊塔の建立。これは「日本人の魂」として語り継がれ、トルコは大の親日国になる。時代を経ても、トルコの小学校の教科書に遭難事件と日本人による救出活動や義援金の話が紹介されているという。
海難から実に95年後、1985年のイラン・イラク戦争時に、トルコ政府は、在イラン邦人をテヘラン空港からトルコ航空の旅客機に乗せ、自国民よりも優先して脱出させたのだった。「約百年の時を経て、海で受けた恩を空で返すとは、トルコの人たちは粋だよな」とは、日本・トルコ協会総裁だった寛仁親王殿下の、娘彬子女王に語られた言葉であった。
2016年5月9日月曜日
「トルコ軍艦エルトゥールル号の海難 オメル・エルトゥール」読む。 著者 オメル・エルトゥール氏の夫人は日本人小弓さんは著述の正確を期するた協力された。この海難救事件は日本・トルコ親交の原点である。 1890(明治23)年9月、本州最南端の和歌山県串本町沖で、惨憺(さんたん)たる海難事件が起こった。 オスマントルコ帝国のエミン少将を司令官とする優美な大型木造巡洋艦エルトゥールル号が、コンスタンティノープルからの11か月の長い航海を経て、横浜港に到着したのはその年の6月だった。来航目的は、両国間の通商条約と軍事協定の正式締結であった。 9月15日、日本の艦隊の見送りを受けて艦は穏やかな横浜港から出帆する。翌16日払暁、突如、台風の襲来。串本町の樫野崎沖で、強風に翻弄された軍艦は、岩礁に激突してばらばらに砕け、乗組員全員が海に投げ出される。事件を察知した灯台守の呼びかけに、真夜中にもかかわらず、言葉も事情も分からないまま、近隣の村民たちが総出で必死の救助活動を行った。生存者は69人で、死者不明者は500人以上に達した。10月に、幸運な生存者と膨大な遺品は日本の軍艦、比叡と金剛に乗って離日し、翌年1月、コンスタンティノープルへ帰還を果たした。本書はトルコ人の著者がこの事件を丹念に描いた歴史小説である。 村人たちの冷静な判断と勇敢な行動。明治天皇の総指揮の下、水死者の丁寧な埋葬、慰霊塔の建立。これは「日本人の魂」として語り継がれ、トルコは大の親日国になる。時代を経ても、トルコの小学校の教科書に遭難事件と日本人による救出活動や義援金の話が紹介されているという。 海難から実に95年後、1985年のイラン・イラク戦争時に、トルコ政府は、在イラン邦人をテヘラン空港からトルコ航空の旅客機に乗せ、自国民よりも優先して脱出させたのだった。「約百年の時を経て、海で受けた恩を空で返すとは、トルコの人たちは粋だよな」とは、日本・トルコ協会総裁だった寛仁親王殿下の、娘彬子女王に語られた言葉であった。
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