羽柴(豊臣)秀吉が毛利家と同盟を強化しうようとする貴重な歴史的書状の発見だ。
羽柴(豊臣)秀吉が、戦国大名毛利氏側の交渉役を丁重にもてなすよう家臣に指示する書状が見つかり、所蔵していた滋賀県長浜市の住民が6月3日、市に寄託した。書状が出されたころ、秀吉と毛利輝元との間で領土交渉が進んでおり、専門家は「交渉過程を知り得る貴重な資料」だとしている。
長浜城歴史博物館(長浜市)によると、書状は「羽柴秀吉書状 伊藤与左衛門尉(よざえもんのじょう)宛」(縦26・3センチ、横41センチ)。天正11(1583)年6月21日の日付があった。毛利氏の交渉役の僧安国寺恵瓊(えけい)をもてなす▽帰国の際は高槻(大阪府)まで準備した馬3頭で送る▽高槻から先の手配も怠らない――ようにと指示している。
秀吉は、本能寺の変があった1582年から、毛利氏と備中(現岡山県西部)などの毛利領国の割譲について協議し、1585年に決着した。この交渉過程で恵瓊が京都を訪れていたとみられる。翌7月に秀吉と恵瓊が堺で会ったことはわかっていたが、6月の交渉は他に確認できていな
2016年6月4日土曜日
羽柴(豊臣)秀吉が毛利家と同盟を強化しうようとする貴重な歴史的書状の発見だ。 羽柴(豊臣)秀吉が、戦国大名毛利氏側の交渉役を丁重にもてなすよう家臣に指示する書状が見つかり、所蔵していた滋賀県長浜市の住民が6月3日、市に寄託した。書状が出されたころ、秀吉と毛利輝元との間で領土交渉が進んでおり、専門家は「交渉過程を知り得る貴重な資料」だとしている。 長浜城歴史博物館(長浜市)によると、書状は「羽柴秀吉書状 伊藤与左衛門尉(よざえもんのじょう)宛」(縦26・3センチ、横41センチ)。天正11(1583)年6月21日の日付があった。毛利氏の交渉役の僧安国寺恵瓊(えけい)をもてなす▽帰国の際は高槻(大阪府)まで準備した馬3頭で送る▽高槻から先の手配も怠らない――ようにと指示している。 秀吉は、本能寺の変があった1582年から、毛利氏と備中(現岡山県西部)などの毛利領国の割譲について協議し、1585年に決着した。この交渉過程で恵瓊が京都を訪れていたとみられる。翌7月に秀吉と恵瓊が堺で会ったことはわかっていたが、6月の交渉は他に確認できていな
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