2018年5月10日木曜日

「天皇陛下萬歳 上野英信」を読む。 ○ 戦前、爆弾三勇士は庶民の英雄であった。上海事変のなかで、敵陣に運びこんだ爆弾とともに「天皇陛下万歳」の一声を残し、自らの身を散らせた三勇士、軍国主義日本はいかにして神様にしたてあげたのか。また本当に「天皇陛下萬歳」と叫んで戦死したか。それによって何をしようとしたのか。日本の社会と歴史の底を流れる生活と思想の源流をつきとめようとする著者が、自らの宿命の課題として迫った力作である。 ○ 三勇士が死の寸前に「天皇陛下萬歳」と言ったとされるが、実際聞いた者はいない。しかし陸軍のプロパガンダとして喧伝されるようになった。 ○ 爆弾三勇士とは、独立工兵第18大隊(久留米)の江下武二、北川丞、作江伊之助の3名の一等兵である。 1932年に第一次上海事変で敵陣を突破して自爆し、突撃路を開いた英雄とされる。肉弾三勇士とも言われた。 ○ この爆弾三勇士は陸軍により喧伝された。その後戦死は天皇陛下を讃える事とされるようになった ○ 第一次上海事変中の1932年(昭和7年)2月22日、日本軍が蔡廷鍇率いる国民革命軍19路軍が上海郊外(現在は上海市宝山区)の廟行鎮に築いたトーチカと鉄条網とクリークで守られた敵陣へ突入するため、鉄条網を破壊する作戦が決定される。この作戦に約36名が志願し、前述の3名が選ばれ、突撃路を築くため点火した破壊筒を持って敵陣に突入爆破。自らも爆発に巻き込まれて3人は戦死したが、鉄条網の破壊には成功した。戦闘工兵の任務の中でも非常に危険性が高いものではあるが、実際は必死の作戦ではなかった。 当時陸軍大臣の荒木貞夫がこの件を爆弾三勇士と命名。大阪毎日新聞・東京日日新聞は「爆弾三勇士」を使い、大阪朝日新聞・東京朝日新聞は肉弾三勇士と称した。

「天皇陛下萬歳 上野英信」を読む。
○ 戦前、爆弾三勇士は庶民の英雄であった。上海事変のなかで、敵陣に運びこんだ爆弾とともに「天皇陛下万歳」の一声を残し、自らの身を散らせた三勇士、軍国主義日本はいかにして神様にしたてあげたのか。また本当に「天皇陛下萬歳」と叫んで戦死したか。それによって何をしようとしたのか。日本の社会と歴史の底を流れる生活と思想の源流をつきとめようとする著者が、自らの宿命の課題として迫った力作である。
○ 三勇士が死の寸前に「天皇陛下萬歳」と言ったとされるが、実際聞いた者はいない。しかし陸軍のプロパガンダとして喧伝されるようになった。
○ 爆弾三勇士とは、独立工兵第18大隊(久留米)の江下武二、北川丞、作江伊之助の3名の一等兵である。
1932年に第一次上海事変で敵陣を突破して自爆し、突撃路を開いた英雄とされる。肉弾三勇士とも言われた。
○ この爆弾三勇士は陸軍により喧伝された。その後戦死は天皇陛下を讃える事とされるようになった
○ 第一次上海事変中の1932年(昭和7年)2月22日、日本軍が蔡廷鍇率いる国民革命軍19路軍が上海郊外(現在は上海市宝山区)の廟行鎮に築いたトーチカと鉄条網とクリークで守られた敵陣へ突入するため、鉄条網を破壊する作戦が決定される。この作戦に約36名が志願し、前述の3名が選ばれ、突撃路を築くため点火した破壊筒を持って敵陣に突入爆破。自らも爆発に巻き込まれて3人は戦死したが、鉄条網の破壊には成功した。戦闘工兵の任務の中でも非常に危険性が高いものではあるが、実際は必死の作戦ではなかった。
当時陸軍大臣の荒木貞夫がこの件を爆弾三勇士と命名。大阪毎日新聞・東京日日新聞は「爆弾三勇士」を使い、大阪朝日新聞・東京朝日新聞は肉弾三勇士と称した。

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