夏目漱石を語る上で小説、漢詩文に加え欠かせない創作分野がもう一つある。 俳句である。
漱石は旧制高校の同級生として正岡子規と出会った。二人とも明治になる前年の生まれで、旧制高校、大学と同じコースを歩んだ。俳句の革新運動を進めた子規との親交は、1902(明治35)年に子規が亡くなるまで続いた。
子規の郷里、四国の松山で中学教師をしていた1895年、28歳の漱石はこんな句を作っている。
「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺 夏目漱石」
その2カ月後、子規が作った句はよく知られる。
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規」
漱石にとって子規は俳句の先生だったが、二人の関係はそれにとどまらず、互いに刺激、影響しあっていたことを物語るのだろう。
漱石の俳句は2500以上知られ、神奈川県内でも多くの句を詠んでいる。
2016年5月7日土曜日
夏目漱石を語る上で小説、漢詩文に加え欠かせない創作分野がもう一つある。 俳句である。 漱石は旧制高校の同級生として正岡子規と出会った。二人とも明治になる前年の生まれで、旧制高校、大学と同じコースを歩んだ。俳句の革新運動を進めた子規との親交は、1902(明治35)年に子規が亡くなるまで続いた。 子規の郷里、四国の松山で中学教師をしていた1895年、28歳の漱石はこんな句を作っている。 「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺 夏目漱石」 その2カ月後、子規が作った句はよく知られる。 「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規」 漱石にとって子規は俳句の先生だったが、二人の関係はそれにとどまらず、互いに刺激、影響しあっていたことを物語るのだろう。 漱石の俳句は2500以上知られ、神奈川県内でも多くの句を詠んでいる。
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