2016年5月7日土曜日

夏目漱石を語る上で小説、漢詩文に加え欠かせない創作分野がもう一つある。 俳句である。  漱石は旧制高校の同級生として正岡子規と出会った。二人とも明治になる前年の生まれで、旧制高校、大学と同じコースを歩んだ。俳句の革新運動を進めた子規との親交は、1902(明治35)年に子規が亡くなるまで続いた。  子規の郷里、四国の松山で中学教師をしていた1895年、28歳の漱石はこんな句を作っている。  「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺 夏目漱石」  その2カ月後、子規が作った句はよく知られる。  「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規」  漱石にとって子規は俳句の先生だったが、二人の関係はそれにとどまらず、互いに刺激、影響しあっていたことを物語るのだろう。  漱石の俳句は2500以上知られ、神奈川県内でも多くの句を詠んでいる。

夏目漱石を語る上で小説、漢詩文に加え欠かせない創作分野がもう一つある。 俳句である。
 漱石は旧制高校の同級生として正岡子規と出会った。二人とも明治になる前年の生まれで、旧制高校、大学と同じコースを歩んだ。俳句の革新運動を進めた子規との親交は、1902(明治35)年に子規が亡くなるまで続いた。
 子規の郷里、四国の松山で中学教師をしていた1895年、28歳の漱石はこんな句を作っている。
 「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺   夏目漱石」
 その2カ月後、子規が作った句はよく知られる。
 「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺     正岡子規」
 漱石にとって子規は俳句の先生だったが、二人の関係はそれにとどまらず、互いに刺激、影響しあっていたことを物語るのだろう。
 漱石の俳句は2500以上知られ、神奈川県内でも多くの句を詠んでいる。

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