2018年8月31日金曜日

 2018年8月31日(金)BS朝日「兵馬俑 最新研究で甦る始皇帝の最強軍団」を見る。 私は2016年2月に東京国立博物館。特別展「始皇帝と大兵馬俑」を見に行きました。 改めてこの番組で驚きを新たにする。 ○ 1974年に中国で始皇帝陵付近から、人や馬をかたどった兵馬俑が発見すると世界を大いに驚かせました。 中国の歴史家「司馬遷」の歴史書にも兵馬俑の記録は無い。 ○ 8000体にもおよぶ発見も、当初はこの特別な遺物の全貌を明らかにしませんでした。 これまでに研究者たちは改めてこの兵馬俑の研究を推し進めて、2000年以上前に土で出来た軍団を生み出した人々について新たな発見をしました。 ○ ロンドン大学と中国兵馬俑博物館が共同で行った研究についての独占取材で、明らかになった新事実に迫ります。 ○ 兵馬俑は2200年もの間、人知れず眠り続けて来ました。 この軍団は、古代中国を統一し国家を総べるための言語や通貨、法律などを整備した秦の始皇帝のために建設された陵墓の一部として作られました。 これは単なる墓陵でなく、まさに始皇帝の死後の世界であると考えられる。 ○ 考古学者と科学者たちは、戦士たちの頭部を3Dモデルにすることで、これら8000体はどれ一つ同じ顔、同じ髪型のものはなく、一体ずつ具体的な個別のモデルがいて、限りなく実際の始皇帝の軍団を再現したものであること、また当初は彩色されていたことを発見します。 ○ また兵士の足元で発見された槍や弓弩の金具から、これらの武器がレプリカなどではなく、実際に使用可能なものだったことを突き止めます。 さらにこのことで、始皇帝の軍団が実際にどのような編成だったのかという事実を明らかにしていきます。

 2018年8月31日(金)BS朝日「兵馬俑 最新研究で甦る始皇帝の最強軍団」を見る。
私は2016年2月に東京国立博物館。特別展「始皇帝と大兵馬俑」を見に行きました。 改めてこの番組で驚きを新たにする。
○ 1974年に中国で始皇帝陵付近から、人や馬をかたどった兵馬俑が発見すると世界を大いに驚かせました。
中国の歴史家「司馬遷」の歴史書にも兵馬俑の記録は無い。
○ 8000体にもおよぶ発見も、当初はこの特別な遺物の全貌を明らかにしませんでした。
これまでに研究者たちは改めてこの兵馬俑の研究を推し進めて、2000年以上前に土で出来た軍団を生み出した人々について新たな発見をしました。
○ ロンドン大学と中国兵馬俑博物館が共同で行った研究についての独占取材で、明らかになった新事実に迫ります。
○ 兵馬俑は2200年もの間、人知れず眠り続けて来ました。
この軍団は、古代中国を統一し国家を総べるための言語や通貨、法律などを整備した秦の始皇帝のために建設された陵墓の一部として作られました。
これは単なる墓陵でなく、まさに始皇帝の死後の世界であると考えられる。
○ 考古学者と科学者たちは、戦士たちの頭部を3Dモデルにすることで、これら8000体はどれ一つ同じ顔、同じ髪型のものはなく、一体ずつ具体的な個別のモデルがいて、限りなく実際の始皇帝の軍団を再現したものであること、また当初は彩色されていたことを発見します。
○ また兵士の足元で発見された槍や弓弩の金具から、これらの武器がレプリカなどではなく、実際に使用可能なものだったことを突き止めます。
さらにこのことで、始皇帝の軍団が実際にどのような編成だったのかという事実を明らかにしていきます。

「「流転の王妃」の昭和史 愛新覚羅浩」を読む。 ○ 皇室と姻戚関係にあった名門、嵯峨侯爵家の長女浩(ひろ)(1914~1987)さんは軍部の政略から満州国皇帝の弟の愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)(1907~1994)氏に嫁ぐも、終戦後は夫と離ればなれになり次女を連れて混乱する中国大陸を流浪。帰国してからは物資不足の苦しい生活、そして長女の死。日中のかけはしとして、激動の人生を生きぬいた。 ○ 当時の日本軍は、中国清朝の最後の皇帝愛新覚羅溥儀(あいしんくらふぎ)を擁立し1932年傀儡国家満州国を建国し溥儀をその皇帝に据えた。 軍部は満州国への支配を強める一環として、1937年溥儀の弟溥傑氏と嵯峨浩さんを政略結婚させた。溥傑と浩との間に男子が生まれることで、子のいない溥儀に代わり、日本人の血を継いだ人間が満州国皇帝になることを期待していた。 ○ 溥傑氏と浩さんはこの不穏な時代を背景に結婚生活をスタートさせる。 溥傑の非常に誠実な人柄で、夫妻の間には強い愛情が芽生え、しばらくは円満な新婚生活が続いた。二人は満州国に移転する。 戦争は激化の一途をたどり、やがて敗戦となり満州国は崩壊する。 中国人たちの激しい憎悪、侵攻してきた容赦ないソ連軍。混乱を極める中で夫妻は離れ離れになり、溥傑氏はソ連軍に連行され、浩さんは身分を隠して中国大陸を流浪する。 そして浩さんは日本に帰還する。日本に残していた長女慧生さんは天城山心中で死亡する。 やがて夫婦は周恩来首相の配慮により北京で再会をはたす。

「「流転の王妃」の昭和史 愛新覚羅浩」を読む。
○ 皇室と姻戚関係にあった名門、嵯峨侯爵家の長女浩(ひろ)(1914~1987)さんは軍部の政略から満州国皇帝の弟の愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)(1907~1994)氏に嫁ぐも、終戦後は夫と離ればなれになり次女を連れて混乱する中国大陸を流浪。帰国してからは物資不足の苦しい生活、そして長女の死。日中のかけはしとして、激動の人生を生きぬいた。
○ 当時の日本軍は、中国清朝の最後の皇帝愛新覚羅溥儀(あいしんくらふぎ)を擁立し1932年傀儡国家満州国を建国し溥儀をその皇帝に据えた。
軍部は満州国への支配を強める一環として、1937年溥儀の弟溥傑氏と嵯峨浩さんを政略結婚させた。溥傑と浩との間に男子が生まれることで、子のいない溥儀に代わり、日本人の血を継いだ人間が満州国皇帝になることを期待していた。
○ 溥傑氏と浩さんはこの不穏な時代を背景に結婚生活をスタートさせる。
溥傑の非常に誠実な人柄で、夫妻の間には強い愛情が芽生え、しばらくは円満な新婚生活が続いた。二人は満州国に移転する。
戦争は激化の一途をたどり、やがて敗戦となり満州国は崩壊する。
中国人たちの激しい憎悪、侵攻してきた容赦ないソ連軍。混乱を極める中で夫妻は離れ離れになり、溥傑氏はソ連軍に連行され、浩さんは身分を隠して中国大陸を流浪する。
そして浩さんは日本に帰還する。日本に残していた長女慧生さんは天城山心中で死亡する。
やがて夫婦は周恩来首相の配慮により北京で再会をはたす。

「相田みつを肩書きのない人生 相田みつを 相田一人」 相田みつをの詩 「つまづいたって いいじゃないか にんげんだ もの 」 「むりを しないで なまけない わたしは 弱い人間だ から」 「しあわせは いつも 自分こころが きめる」 「どんな 理屈をつけても 戦争は いやだな 肉親二人 戦争で失って いるから」 相田 みつを(1924年5月20日 - 1991年12月17日 享年67歳)は、日本の詩人・書家。平易な詩を独特の書体で書いた作品で知られる。書の詩人いのちの詩人とも称される。 ○ この本は発行から30年を迎えるロングセラー『にんげんだもの』の背景に焦点を合わせ、長男の相田みつを美術館館長相田一人氏による解説つきで作品を紹介しています。 みつを自身、またゆかりの品等の画像も紹介し、多面的に「相田みつを」の世界を表現します。 ○ よく「相田みつをの素朴な書」と言われるが、彼はさまざまな工夫をし、綿密に計算をし書いた。

「相田みつを肩書きのない人生 相田みつを 相田一人」
相田みつをの詩
「つまづいたって いいじゃないか にんげんだ もの 」
「むりを しないで なまけない わたしは 弱い人間だ から」
「しあわせは いつも 自分こころが きめる」
「どんな 理屈をつけても 戦争は いやだな 肉親二人 戦争で失って いるから」

相田 みつを(1924年5月20日 - 1991年12月17日 享年67歳)は、日本の詩人・書家。平易な詩を独特の書体で書いた作品で知られる。書の詩人いのちの詩人とも称される。
○ この本は発行から30年を迎えるロングセラー『にんげんだもの』の背景に焦点を合わせ、長男の相田みつを美術館館長相田一人氏による解説つきで作品を紹介しています。
みつを自身、またゆかりの品等の画像も紹介し、多面的に「相田みつを」の世界を表現します。
○ よく「相田みつをの素朴な書」と言われるが、彼はさまざまな工夫をし、綿密に計算をし書いた。

昨日2018年8月30日東京国立博物館「縄文一万年美の鼓動」に行きました。 数々の国宝、重要文化財を観賞しました。改めて感激を新たにしました。一日たっても縄文熱覚めやらず。 ○ 岡本太郎の言葉を伝えよう。  故岡本太郎は「芸術は爆発だ」という名言で知られる。彼は20代をパリで過ごした。帰国後、いわゆる「わび・さび」を基調とする日本の伝統美に幻滅する。自国文化への絶望から彼を救い出したのは縄文土器だった。 岡本太郎は1951年秋、東京・上野の展示会で縄文の土器や土偶と出会い、手持ちのカメラで熱心に写した。 のちに記す。芸術家・岡本太郎は縄文土器を目にした際の衝撃を雑誌『みづゑ』(1952年2月)の「四次元との対話―縄文土器論」にこう記している。 ○ 岡本太郎は長くヨーロッパに暮らした後、帰国。日本で見る「伝統」と呼ばれる「わび、さび」文化の弱々しさに失望していた。  「その私が思わずうなってしまったのは、縄文土器「《火焰型土器》(現在 国宝) 新潟県十日町市 笹山遺跡出土」等 に触れたときです。体じゅうがひっかきまわされるような気がしました。やがてなんともいえない快感が血管の中をかけめぐり、モリモリと力があふれ、吹きおこるのを覚えたのです。たんに日本、そして民族にたいしてだけではなく、もっと根源的な、人間にたいする感動と信頼感、親しみさえひしひしと感じとる思いでした。」

昨日2018年8月30日東京国立博物館「縄文一万年美の鼓動」に行きました。
数々の国宝、重要文化財を観賞しました。改めて感激を新たにしました。一日たっても縄文熱覚めやらず。
○ 岡本太郎の言葉を伝えよう。
 故岡本太郎は「芸術は爆発だ」という名言で知られる。彼は20代をパリで過ごした。帰国後、いわゆる「わび・さび」を基調とする日本の伝統美に幻滅する。自国文化への絶望から彼を救い出したのは縄文土器だった。
岡本太郎は1951年秋、東京・上野の展示会で縄文の土器や土偶と出会い、手持ちのカメラで熱心に写した。
のちに記す。芸術家・岡本太郎は縄文土器を目にした際の衝撃を雑誌『みづゑ』(1952年2月)の「四次元との対話―縄文土器論」にこう記している。
○ 岡本太郎は長くヨーロッパに暮らした後、帰国。日本で見る「伝統」と呼ばれる「わび、さび」文化の弱々しさに失望していた。
 「その私が思わずうなってしまったのは、縄文土器「《火焰型土器》(現在 国宝) 新潟県十日町市 笹山遺跡出土」等 に触れたときです。体じゅうがひっかきまわされるような気がしました。やがてなんともいえない快感が血管の中をかけめぐり、モリモリと力があふれ、吹きおこるのを覚えたのです。たんに日本、そして民族にたいしてだけではなく、もっと根源的な、人間にたいする感動と信頼感、親しみさえひしひしと感じとる思いでした。」

2018年8月30日木曜日

8月30日NHKBSプレミアム「英雄たちの選択・大谷吉継の西軍必勝策」 後世の歴史家は大谷吉継は賞賛する。大谷吉継は無欲で誠実な武将だった。 大谷吉継は真田信繁(幸村)の岳父だ。 関ヶ原の決戦では大谷吉継(1559~1600)は石田三成と共に西国大名を結集し徳川家康の天下取りの野望を打倒せんとする。大谷吉継は人望があった。石田三成は人望が無かった。 大谷吉継の作戦。西軍の総大将を石田三成は外し、毛利輝元とし軍勢増やし東軍を圧倒しようとする。しかし徳川家康は豊臣幕下の武将引き入れる。関ヶ原の決戦では最初は西軍有利であった。小早川秀秋の裏切りより大谷吉継は38歳の若さで自刃する。

8月30日NHKBSプレミアム「英雄たちの選択・大谷吉継の西軍必勝策」
後世の歴史家は大谷吉継は賞賛する。大谷吉継は無欲で誠実な武将だった。
大谷吉継は真田信繁(幸村)の岳父だ。
関ヶ原の決戦では大谷吉継(1559~1600)は石田三成と共に西国大名を結集し徳川家康の天下取りの野望を打倒せんとする。大谷吉継は人望があった。石田三成は人望が無かった。
大谷吉継の作戦。西軍の総大将を石田三成は外し、毛利輝元とし軍勢増やし東軍を圧倒しようとする。しかし徳川家康は豊臣幕下の武将引き入れる。関ヶ原の決戦では最初は西軍有利であった。小早川秀秋の裏切りより大谷吉継は38歳の若さで自刃する。

8月30日東京都美術館「没後50年 藤田嗣治展」に行きました。 「Foujita: A Retrospective ― Commemorating the 50th Anniversary of his Death」 期間 2018年7月31日(火)~10月8日(月・祝) ○ 私はしばしば藤田嗣治の作品を観賞していますが、今回のように纏まって多くの作品を観賞できるのは感激です。 ○ 明治半ばの東京で生まれ、80年を超える人生の約半分をフランスで暮らし、晩年にはフランス国籍を取得して欧州の土となった画家・藤田嗣治(レオナール・フジタ 1886-1968 享年81歳)。2018年は、エコール・ド・パリの寵児のひとりであり、太平洋戦争期の作戦記録画でも知られる藤田が世を去って50年目にあたります。 この節目に、日本はもとよりフランスを中心とした欧米の主要な美術館の協力を得て、画業の全貌を展覧する大回顧展を開催されました。 ○ 本展覧会は、「風景画」「肖像画」「裸婦」「宗教画」などのテーマを設けて、最新の研究成果等も盛り込みながら、藤田芸術をとらえ直そうとする試みです。 藤田の代名詞ともいえる「乳白色の下地」による裸婦の代表作、初来日となる作品やこれまで紹介されることの少なかった作品も展示されるなど、見どころが満載の展覧会です。

8月30日東京都美術館「没後50年 藤田嗣治展」に行きました。
「Foujita: A Retrospective ― Commemorating the 50th Anniversary of his Death」
期間 2018年7月31日(火)~10月8日(月・祝)
○ 私はしばしば藤田嗣治の作品を観賞していますが、今回のように纏まって多くの作品を観賞できるのは感激です。
○ 明治半ばの東京で生まれ、80年を超える人生の約半分をフランスで暮らし、晩年にはフランス国籍を取得して欧州の土となった画家・藤田嗣治(レオナール・フジタ 1886-1968 享年81歳)。2018年は、エコール・ド・パリの寵児のひとりであり、太平洋戦争期の作戦記録画でも知られる藤田が世を去って50年目にあたります。
この節目に、日本はもとよりフランスを中心とした欧米の主要な美術館の協力を得て、画業の全貌を展覧する大回顧展を開催されました。
○ 本展覧会は、「風景画」「肖像画」「裸婦」「宗教画」などのテーマを設けて、最新の研究成果等も盛り込みながら、藤田芸術をとらえ直そうとする試みです。
藤田の代名詞ともいえる「乳白色の下地」による裸婦の代表作、初来日となる作品やこれまで紹介されることの少なかった作品も展示されるなど、見どころが満載の展覧会です。

8月29日NHK歴史秘話ヒストリア「武田信玄“甲陽軍鑑”が語る真実」を見る。 ○ 「戦国大名」といえば、まず名前があがる甲斐(山梨県)の武田信玄である。 織田信長も恐れた名将・信玄を知る手がかりこそ、史料「甲陽軍鑑」だ。 しかし甲陽軍鑑は、明治時代から「偽書」とみなされてきた。 ○ 最近甲陽軍鑑末書が発見された。東京大学名誉教授、黒田日出男氏が解説する。 信玄の側近に小宰相と言う女性がいた。彼女は家臣団の融和に尽力した。また信玄は天下統一構想を持っていたとされる。 ○ 甲陽軍鑑偽書説の汚名に挑んだ昭和の国語学者の酒井憲二氏は1990年代から『軍鑑』に関する国語学的、文献学的、書誌学的検討を行い、酒井は軍鑑の研究水準を大きく引き上げたとされる。 酒井氏は、軍鑑の様々な版本と写本を、文献学的・書誌学的に照らしてそれぞれ系統的に整理し、テキストの底本とすべき写本を確定させた。酒井氏の軍鑑研究は、『甲陽軍鑑大成 第四巻 研究編』(汲古書院、1995年1月、にまとめられている。また、『甲陽軍鑑大成 本文編上・下』を版行した。 ○ 見つかった幻の記述。見えてくる信玄の知られざる一面。信玄の言行を懸命に伝えようとした軍鑑の「作者」。甲陽軍鑑最新研究を通じて、武田信玄と戦国の人々の心に迫る。酒井氏は甲陽軍鑑に使われている言葉から室町末期、戦国時代の書であり。甲陽軍鑑は偽書でないと判断した。

8月29日NHK歴史秘話ヒストリア「武田信玄“甲陽軍鑑”が語る真実」を見る。
○ 「戦国大名」といえば、まず名前があがる甲斐(山梨県)の武田信玄である。
織田信長も恐れた名将・信玄を知る手がかりこそ、史料「甲陽軍鑑」だ。
しかし甲陽軍鑑は、明治時代から「偽書」とみなされてきた。
○ 最近甲陽軍鑑末書が発見された。東京大学名誉教授、黒田日出男氏が解説する。
信玄の側近に小宰相と言う女性がいた。彼女は家臣団の融和に尽力した。また信玄は天下統一構想を持っていたとされる。
○ 甲陽軍鑑偽書説の汚名に挑んだ昭和の国語学者の酒井憲二氏は1990年代から『軍鑑』に関する国語学的、文献学的、書誌学的検討を行い、酒井は軍鑑の研究水準を大きく引き上げたとされる。
酒井氏は、軍鑑の様々な版本と写本を、文献学的・書誌学的に照らしてそれぞれ系統的に整理し、テキストの底本とすべき写本を確定させた。酒井氏の軍鑑研究は、『甲陽軍鑑大成 第四巻 研究編』(汲古書院、1995年1月、にまとめられている。また、『甲陽軍鑑大成 本文編上・下』を版行した。
○ 見つかった幻の記述。見えてくる信玄の知られざる一面。信玄の言行を懸命に伝えようとした軍鑑の「作者」。甲陽軍鑑最新研究を通じて、武田信玄と戦国の人々の心に迫る。酒井氏は甲陽軍鑑に使われている言葉から室町末期、戦国時代の書であり。甲陽軍鑑は偽書でないと判断した。

2018年8月29日水曜日

「終戦日記を読む 野坂昭如」を読む。 ○ この本は、NHK人間講座で2002年8月から9月に放送された「終戦日記を読む」のテキストをもとに単行本化したものである。 ○ 焼跡闇市派の作家野坂昭如さんが、戦後60年を機に「日本人は戦争を知らない」「戦争を伝えていない」と思い、戦争の時代を生きた者として自らの体験を後世に伝える。 ○ 著者自身の14歳時の経験(昭和20(1945)年6月5日の神戸空襲で養父との死別と養母の火傷、8月初め、1歳の妹と2人で福井市郊外へ食糧を求めて避難するも8月中旬に妹は餓死、9月初めに神戸に戻っての混乱の時代)と照らし合う形で、有名人・無名人の日記から、原爆投下、ソ連の参戦、玉音放送、戦後の引き揚げやインフレ・食糧難の記録や感想を引用する。 ○ 1945年8月5日ソ連は日ソ不可侵条約を破棄し、対日宣戦を通告した。ソ連軍は満州に侵攻する。関東軍高級将校は真っ先に飛行機で日本に逃亡する。卑怯な関東軍幹部だ。 ○ 引用される終戦日記の書き手は、著名人では内大臣の木戸幸一、作家では永井荷風、大佛次郎、高見順、中野重治等、漫談家の徳川無声がいるが、皆さん諦観して自分の関心事(国体護持、食べ物、情報、読書等)に専心している。 また当時は無名だが後に作家となる藤原てい(当時27歳、満州で気象台職員の妻、3児の母)や山田風太郎(20歳、医学生)は、先が見えない中でその日を必死に生きている。 ○ 無名人では、森脇瑤子さん(13歳、広島高女1年生)は8月6日家屋疎開の作業中に原爆に遭い即死するが、彼女の死の前日5日の日記は健気で痛々しい(著者も彼女にのみは敬称「さん」付け)。 この他、玉音放送を聴いた工員や満州からの引き揚げ者、沖縄で逃避行を続けた主婦の記録が引用される。 ○  著者の眼差しは、軍人や文化人・知識人ではなく、無名の庶民に向いている。 内地の一般人にとって、戦争は災難ではあるが空襲が始まるまではよそ事であったし、在満州の民間人にとって、8月9日あるいは15日が開戦日であった。 ○ 一方、沖縄の慰霊日は一応牛島司令官の自決した6月23日とされているが、島民にとって戦闘や逃避行は9月初めまで続いており、8月15日は何ら特別の日ではなかった。  読後、改めて20年8月15日について考えることの重要性と、一人一人の苦難の体験を語り継ぐことの大切さを痛感する。

「終戦日記を読む 野坂昭如」を読む。
○ この本は、NHK人間講座で2002年8月から9月に放送された「終戦日記を読む」のテキストをもとに単行本化したものである。
○ 焼跡闇市派の作家野坂昭如さんが、戦後60年を機に「日本人は戦争を知らない」「戦争を伝えていない」と思い、戦争の時代を生きた者として自らの体験を後世に伝える。
○ 著者自身の14歳時の経験(昭和20(1945)年6月5日の神戸空襲で養父との死別と養母の火傷、8月初め、1歳の妹と2人で福井市郊外へ食糧を求めて避難するも8月中旬に妹は餓死、9月初めに神戸に戻っての混乱の時代)と照らし合う形で、有名人・無名人の日記から、原爆投下、ソ連の参戦、玉音放送、戦後の引き揚げやインフレ・食糧難の記録や感想を引用する。
○ 1945年8月5日ソ連は日ソ不可侵条約を破棄し、対日宣戦を通告した。ソ連軍は満州に侵攻する。関東軍高級将校は真っ先に飛行機で日本に逃亡する。卑怯な関東軍幹部だ。
○ 引用される終戦日記の書き手は、著名人では内大臣の木戸幸一、作家では永井荷風、大佛次郎、高見順、中野重治等、漫談家の徳川無声がいるが、皆さん諦観して自分の関心事(国体護持、食べ物、情報、読書等)に専心している。
また当時は無名だが後に作家となる藤原てい(当時27歳、満州で気象台職員の妻、3児の母)や山田風太郎(20歳、医学生)は、先が見えない中でその日を必死に生きている。
○ 無名人では、森脇瑤子さん(13歳、広島高女1年生)は8月6日家屋疎開の作業中に原爆に遭い即死するが、彼女の死の前日5日の日記は健気で痛々しい(著者も彼女にのみは敬称「さん」付け)。
この他、玉音放送を聴いた工員や満州からの引き揚げ者、沖縄で逃避行を続けた主婦の記録が引用される。
○  著者の眼差しは、軍人や文化人・知識人ではなく、無名の庶民に向いている。
内地の一般人にとって、戦争は災難ではあるが空襲が始まるまではよそ事であったし、在満州の民間人にとって、8月9日あるいは15日が開戦日であった。
○ 一方、沖縄の慰霊日は一応牛島司令官の自決した6月23日とされているが、島民にとって戦闘や逃避行は9月初めまで続いており、8月15日は何ら特別の日ではなかった。
 読後、改めて20年8月15日について考えることの重要性と、一人一人の苦難の体験を語り継ぐことの大切さを痛感する。

「あの画家に会いたい個人美術館 大竹昭子」 ○ 有名な画家も世に知られていない画家も含めて、北は北海道から南は奄美大島まで、それらの画家の作品を展示している個人美術館を丁寧に紹介した本です。 ○ 私はまだ訪問していない美術館が多い。さあ旅立ちこれ等の美術館を訪問しよう。 ○ 筆者の大竹昭子さんが、実際現地を訪れての感想ですので、紀行文のような軽さもあり、美術愛好家だけでなく、広い読者を意識しての編集が伺えます。他に類書がないだけに興味を持つ人も多いのではと思いました。下記に収録の画家を列挙しましたが、知らない画家の作品に興味を持ちました。全国にはもっと知名度の高い画家の個人美術館もあるのですが、筆者の興味を覚えた画家の集大成なのかと思います。 作品が掲載してあるページは全てカラーです。 画家と美術館名を記します。 三岸好太郎 北海道立三岸好太郎美術館(札幌市) 神田日勝 神田日勝記念美術館(北海道河東郡) 棟方志功 棟方志功記念館(青森市) 東山魁夷 長野県信濃美術館・東山魁夷館(長野市) 松本竣介 大川美術館松本竣介記念室(群馬県桐生市) 小杉放菴 小杉放菴記念日光美術館(栃木県日光市) 向井潤吉 世田谷美術館分館向井潤吉アトリエ館(東京都世田谷区) 平賀敬 平賀敬美術館(神奈川県足柄下郡) 中川一政 真鶴町立中川一政美術館(神奈川県足柄下郡) 秋野不矩 秋野不矩美術館(浜松市天竜区) 三岸節子 一宮市三岸節子記念美術館(愛知県一宮市) 熊谷守一 熊谷守一記念館(岐阜県中津川市) 上村松園、松篁・淳之 松伯美術館(奈良市) 香月泰男 香月泰男美術館(山口県長門市) 佐藤溪 由布院美術館 佐藤溪コレクション(大分県由布市湯布院街) 青木繁 石橋美術館(福岡県久留米市) 田中一村 田中一村記念美術館(奄美大島)

「あの画家に会いたい個人美術館 大竹昭子」
○ 有名な画家も世に知られていない画家も含めて、北は北海道から南は奄美大島まで、それらの画家の作品を展示している個人美術館を丁寧に紹介した本です。
○ 私はまだ訪問していない美術館が多い。さあ旅立ちこれ等の美術館を訪問しよう。
○ 筆者の大竹昭子さんが、実際現地を訪れての感想ですので、紀行文のような軽さもあり、美術愛好家だけでなく、広い読者を意識しての編集が伺えます。他に類書がないだけに興味を持つ人も多いのではと思いました。下記に収録の画家を列挙しましたが、知らない画家の作品に興味を持ちました。全国にはもっと知名度の高い画家の個人美術館もあるのですが、筆者の興味を覚えた画家の集大成なのかと思います。
作品が掲載してあるページは全てカラーです。

画家と美術館名を記します。
三岸好太郎 北海道立三岸好太郎美術館(札幌市)
神田日勝 神田日勝記念美術館(北海道河東郡)
棟方志功 棟方志功記念館(青森市)
東山魁夷 長野県信濃美術館・東山魁夷館(長野市)
松本竣介 大川美術館松本竣介記念室(群馬県桐生市)
小杉放菴 小杉放菴記念日光美術館(栃木県日光市)
向井潤吉 世田谷美術館分館向井潤吉アトリエ館(東京都世田谷区)
平賀敬 平賀敬美術館(神奈川県足柄下郡)
中川一政 真鶴町立中川一政美術館(神奈川県足柄下郡)
秋野不矩 秋野不矩美術館(浜松市天竜区)
三岸節子 一宮市三岸節子記念美術館(愛知県一宮市)
熊谷守一 熊谷守一記念館(岐阜県中津川市)
上村松園、松篁・淳之 松伯美術館(奈良市)
香月泰男 香月泰男美術館(山口県長門市)
佐藤溪 由布院美術館 佐藤溪コレクション(大分県由布市湯布院街)
青木繁 石橋美術館(福岡県久留米市)
田中一村 田中一村記念美術館(奄美大島)

「イエスの生涯 遠藤周作」を読む。 ○ 遠藤周作氏が、キリスト教信者としての立場からイエスの生涯を語る。 遠藤周作氏はこの本の冒頭に語る。「彼の容貌を私たちは見たこともない。彼の声を私たちは聞いたこともない。今から語るイエスはどんな顔をされていたのかも私たちは知らぬ。」 ○ 遠藤周作氏は聖書で語られているイエスの「奇跡」の言及を極力排し、あくまで一人の人間を見る目でイエスを見つめる。 ○ 遠藤周作氏は奇跡によってイエスが尊いとは言わない。イエスは『愛の伝道者』であるからこそ尊いと述べる。 ○ 遠藤周作氏の語るイエス像は決して偏狭なものではなく、国家を超えた普遍的なものを持って我々に迫ってくる。最終的に現れてくるイエスは非常に単純明快な意味での『愛の伝道者』なのだ。 ○ イエスは病いに苦しんでいる者は、病気などの苦しみよりも、むしろ誰からも愛されないという苦しみが根本にあると言う事を熟知していたと述べる。 ○ イエスの愛は苦しむ人に深く同情し、自らが彼とともに苦しむ事によって彼の根本の苦しみから解放しようとしる愛である。 奇跡的な側面を描かない事で、このような『愛』の構造がより深く理解できる。そしてこのように描写されたイエスは、いっそう人間的な魅力を持つ人物として我々の目に映る。 ○ イエスがなぜ当時のユダヤ人に全く理解されなかった。ユダには失望の感情の変遷を経た後にイエスを裏切った。イエスは彼らが望んだ奇跡を行わなかった。 彼らはダビデのような英雄でなかった。ユダヤ人をローマの支配から解放される英雄でなかった。しかしイエスは『愛の伝道者』であった。

「イエスの生涯 遠藤周作」を読む。
○ 遠藤周作氏が、キリスト教信者としての立場からイエスの生涯を語る。
遠藤周作氏はこの本の冒頭に語る。「彼の容貌を私たちは見たこともない。彼の声を私たちは聞いたこともない。今から語るイエスはどんな顔をされていたのかも私たちは知らぬ。」
○ 遠藤周作氏は聖書で語られているイエスの「奇跡」の言及を極力排し、あくまで一人の人間を見る目でイエスを見つめる。
○ 遠藤周作氏は奇跡によってイエスが尊いとは言わない。イエスは『愛の伝道者』であるからこそ尊いと述べる。
○ 遠藤周作氏の語るイエス像は決して偏狭なものではなく、国家を超えた普遍的なものを持って我々に迫ってくる。最終的に現れてくるイエスは非常に単純明快な意味での『愛の伝道者』なのだ。
○ イエスは病いに苦しんでいる者は、病気などの苦しみよりも、むしろ誰からも愛されないという苦しみが根本にあると言う事を熟知していたと述べる。
○ イエスの愛は苦しむ人に深く同情し、自らが彼とともに苦しむ事によって彼の根本の苦しみから解放しようとしる愛である。
奇跡的な側面を描かない事で、このような『愛』の構造がより深く理解できる。そしてこのように描写されたイエスは、いっそう人間的な魅力を持つ人物として我々の目に映る。
○ イエスがなぜ当時のユダヤ人に全く理解されなかった。ユダには失望の感情の変遷を経た後にイエスを裏切った。イエスは彼らが望んだ奇跡を行わなかった。
彼らはダビデのような英雄でなかった。ユダヤ人をローマの支配から解放される英雄でなかった。しかしイエスは『愛の伝道者』であった。

2018年8月28日火曜日

「日本の神話と十大昔話 楠田正雄」を読む。 古典、昔話は、語り部により繰り返し語られてきた。だから何回聞いても面白い。 ○ 記紀神話にもとづく、神と人間の交流の中に生まれた不思議なロマンを秘めた物語の数々は、日本人の心の基層で息づいている。 ○ 十大昔話は、誰もが一度は聞き、子供たちにも語り伝えたい心暖まる日本昔話代表作を厳選して収録している。 本書のお話しは、すべて読みやすい形で、漢字にはルビが打ってある。子供さん向けの本である。著者・楠山正雄が編集したものである。日本人の心のふるさとがここにある。 ○ 『日本の神話と十大昔話』の前半は日本神話である。『日本書紀』と『古事記』から、国生みの伝説、スサノオ、大国主、出雲の国譲り、猿田彦、海幸山幸などが語られる。 ○ 十大昔話は、桃太郎、花咲じい、かちかち山、舌切りすずめ、猿かに合戦、くらげ、のお使い、ねずみの嫁入り、猫の草紙、文福茶がま、金太郎。 いずれも有名な話ばかりでありである。 子どもさん向けに書かれているので、読み聞かせに使ってもいいだろう。

「日本の神話と十大昔話 楠田正雄」を読む。
古典、昔話は、語り部により繰り返し語られてきた。だから何回聞いても面白い。
○ 記紀神話にもとづく、神と人間の交流の中に生まれた不思議なロマンを秘めた物語の数々は、日本人の心の基層で息づいている。
○ 十大昔話は、誰もが一度は聞き、子供たちにも語り伝えたい心暖まる日本昔話代表作を厳選して収録している。
本書のお話しは、すべて読みやすい形で、漢字にはルビが打ってある。子供さん向けの本である。著者・楠山正雄が編集したものである。日本人の心のふるさとがここにある。
○ 『日本の神話と十大昔話』の前半は日本神話である。『日本書紀』と『古事記』から、国生みの伝説、スサノオ、大国主、出雲の国譲り、猿田彦、海幸山幸などが語られる。
○ 十大昔話は、桃太郎、花咲じい、かちかち山、舌切りすずめ、猿かに合戦、くらげ、のお使い、ねずみの嫁入り、猫の草紙、文福茶がま、金太郎。
いずれも有名な話ばかりでありである。
子どもさん向けに書かれているので、読み聞かせに使ってもいいだろう。

ご近所さまから頂いた、葡萄です。夕食のデザートに最適、ああ美味しかった。

ご近所さまから頂いた、葡萄です。夕食のデザートに最適、ああ美味しかった。

「無私の日本人 磯田道史」を読む。 この本には三話が載せられているが、圧巻は、穀田屋十三郎の町起こしの話だ。他の二話は、「中根東里」、「大田垣蓮月」である。これ等も、もちろん立派な話しで感銘を受けた。  即ち、この本は、世間一般に知られていないが、人々に感動を与える生き様を過ごした人物について、作者が古文献を漁るようにして世に伝えたものである。なぜ作者はこの三人を伝えようと思ったか、それは、題名にもあるように、無私の生涯を過ごした人々だからである。 第一話は映画化された。映画名「殿、利息でござる!」である。  第一話「穀田谷十三郎」(1720 ~1777)貧しさの為に潰れそうになっている東北の仙台に近い、「吉岡」という町に住む穀田谷十三郎が、仙台藩に千両の金を貸し付けてその利子を全住民に配る仕組みを考え、それを実行に移して町おこしに成功した。 しかも、「偉業を人前で語るなと言われた子孫は、本当にそうした」ということである。ひたすら無私の心で町起こしの為に奔走する生き様に、偉さと謙虚さを感じる。  第二話「中根東里」(1694~1765)は、江戸時代中期の儒学者である。「そのささやかな生涯が、ひろく世に知られることなど、ついぞ期待していなかった。」人ではあるが、大詩人として希有絶無の天才だった人だった。ひたすら学問の真理を求める生活に徹し、悩める人や貧者に施しをしたので、自分は「環堵容膝」と言ってもよいような住まいに暮らして子供達に字を教えていた。  第三話「大田垣蓮月」(1791~1875)は明治八年まで存命していた尼さんである。蓮月は、若き日の富岡鉄斎を侍童として暮らし、鉄斎の人格形成に大きな影響を与えた。 京都でたびたび起った飢饉のときには、私財をなげうって寄付し、また自費で鴨川に丸太町橋も架けるなど、慈善活動に勤しんだ。 鳥羽伏見の戦いの後、蓮月は、西郷隆盛を諌める和歌を贈った。「あだ味方勝つも負くるも哀れなり同じ御国の人と思へば」 この本の主題でもある、無私の心に徹した生き様には頭が下がる。  著者はあとがきで、「この国には、自他を峻別し、他人と競争する社会経済のあり方とは違った、深い哲学がある。 しかも、無名のふつうの江戸人に、その哲学が宿っていた。」を述べているが、私達の祖先が残してくれたそう言う美徳を忘れないようにしたい、とこの本を読んでつくづく思ったものだった。

「無私の日本人 磯田道史」を読む。
この本には三話が載せられているが、圧巻は、穀田屋十三郎の町起こしの話だ。他の二話は、「中根東里」、「大田垣蓮月」である。これ等も、もちろん立派な話しで感銘を受けた。

 即ち、この本は、世間一般に知られていないが、人々に感動を与える生き様を過ごした人物について、作者が古文献を漁るようにして世に伝えたものである。なぜ作者はこの三人を伝えようと思ったか、それは、題名にもあるように、無私の生涯を過ごした人々だからである。
第一話は映画化された。映画名「殿、利息でござる!」である。

 第一話「穀田谷十三郎」(1720 ~1777)貧しさの為に潰れそうになっている東北の仙台に近い、「吉岡」という町に住む穀田谷十三郎が、仙台藩に千両の金を貸し付けてその利子を全住民に配る仕組みを考え、それを実行に移して町おこしに成功した。
しかも、「偉業を人前で語るなと言われた子孫は、本当にそうした」ということである。ひたすら無私の心で町起こしの為に奔走する生き様に、偉さと謙虚さを感じる。

 第二話「中根東里」(1694~1765)は、江戸時代中期の儒学者である。「そのささやかな生涯が、ひろく世に知られることなど、ついぞ期待していなかった。」人ではあるが、大詩人として希有絶無の天才だった人だった。ひたすら学問の真理を求める生活に徹し、悩める人や貧者に施しをしたので、自分は「環堵容膝」と言ってもよいような住まいに暮らして子供達に字を教えていた。

 第三話「大田垣蓮月」(1791~1875)は明治八年まで存命していた尼さんである。蓮月は、若き日の富岡鉄斎を侍童として暮らし、鉄斎の人格形成に大きな影響を与えた。 京都でたびたび起った飢饉のときには、私財をなげうって寄付し、また自費で鴨川に丸太町橋も架けるなど、慈善活動に勤しんだ。
鳥羽伏見の戦いの後、蓮月は、西郷隆盛を諌める和歌を贈った。「あだ味方勝つも負くるも哀れなり同じ御国の人と思へば」
この本の主題でもある、無私の心に徹した生き様には頭が下がる。

 著者はあとがきで、「この国には、自他を峻別し、他人と競争する社会経済のあり方とは違った、深い哲学がある。
しかも、無名のふつうの江戸人に、その哲学が宿っていた。」を述べているが、私達の祖先が残してくれたそう言う美徳を忘れないようにしたい、とこの本を読んでつくづく思ったものだった。

「あなたを救う法然のことば 町田宗鳳」を読む。 ○ 「南無阿弥陀仏と称えたら誰でも極楽往生できる」鎌倉時代、法然上人は上流階級のものであった仏教を、念仏を称えるという簡単な方法で民衆の宗教に変え、多くの人々の悩み苦しみを聞き、的確な答えを授けました。そんな法然がいまの世に生きていたら、私たちの悩みにどう答えてくれるのでしょう。この本は法然にかわり悩みに答える形で、法然のことばとそこに込められた思いを綴る1冊です。 ○ 法然がいまの世に生きていたら、私たちの悩みにどう答えてくれるのでしょう。 町田宗鳳さんは法然の「南無阿弥陀仏」を「ありがとう」の言葉に置き換え、誰にでも理解できる優しい言葉で私達の悩みに答えてくれます。 ○ 私は現代の浄土宗の信者ではありません。 何故か、今の浄土宗は葬式仏教になったからです。 もし今鎌倉時代の法然さまが現れお言葉を聴けるなら喜んでお目にかかるでしょう。 私たちは自分にも「ありがとう」他人にも「ありがとう」と言いましょう。

「あなたを救う法然のことば 町田宗鳳」を読む。
○ 「南無阿弥陀仏と称えたら誰でも極楽往生できる」鎌倉時代、法然上人は上流階級のものであった仏教を、念仏を称えるという簡単な方法で民衆の宗教に変え、多くの人々の悩み苦しみを聞き、的確な答えを授けました。そんな法然がいまの世に生きていたら、私たちの悩みにどう答えてくれるのでしょう。この本は法然にかわり悩みに答える形で、法然のことばとそこに込められた思いを綴る1冊です。
○ 法然がいまの世に生きていたら、私たちの悩みにどう答えてくれるのでしょう。
町田宗鳳さんは法然の「南無阿弥陀仏」を「ありがとう」の言葉に置き換え、誰にでも理解できる優しい言葉で私達の悩みに答えてくれます。
○ 私は現代の浄土宗の信者ではありません。
何故か、今の浄土宗は葬式仏教になったからです。
もし今鎌倉時代の法然さまが現れお言葉を聴けるなら喜んでお目にかかるでしょう。
私たちは自分にも「ありがとう」他人にも「ありがとう」と言いましょう。

「不思議の国のトットちゃん 黒柳徹子」を読む。 この本の装画、挿絵は心を慰めさせる「いわさきちひろ」さんでの作品である。 ○ 黒柳徹子さんは渥美清さんを「お兄ちゃん」と呼んでいた。渥美清さんは優しく、心配りをする人だった。 ○ 黒柳徹子さんのユニセフ親善大使としての活躍や献身ぶりは、ほかの人には真似できない献身的な行動である。 恥ずかしながら私も貧者の一灯ユニセフ基金に献金しています。 ○ 世界で最も裕福な国が「アメリカファースト」と言っている。ほんの少しでも開発途上国の子供たちを援助して欲しいものだ。 ○ ソマリアの子供たちは飢えている。もっと多くの開発途上国の子供たちも飢えている。お金持ちの国の人たちは食品を無駄に扱っていないでしょうか。 ○ この本を読み、私たちは途上国の子供たちの悲惨な現状を知り驚く事が多い。少しでも飢えている子供たちを助ける事ができないでしょうか。 黒柳徹子さんが敢えてこの本をお書きになったのは、「人の幸せを壊す戦争は二度とあってはならない。」という彼女の強い思いであろう。 ○ 黒柳徹子さんが何故、こんなにも途上国の子供たちのために活動できるのか、それはきっと一見華やかで元気な黒柳さんにも子供の頃に戦争体験があったからであろう。 今の戦争を知らない世代には実感としてよくわからない「飢える」と言う感覚をよく理解されているからであろう。

「不思議の国のトットちゃん 黒柳徹子」を読む。
この本の装画、挿絵は心を慰めさせる「いわさきちひろ」さんでの作品である。
○ 黒柳徹子さんは渥美清さんを「お兄ちゃん」と呼んでいた。渥美清さんは優しく、心配りをする人だった。
○ 黒柳徹子さんのユニセフ親善大使としての活躍や献身ぶりは、ほかの人には真似できない献身的な行動である。
恥ずかしながら私も貧者の一灯ユニセフ基金に献金しています。
○ 世界で最も裕福な国が「アメリカファースト」と言っている。ほんの少しでも開発途上国の子供たちを援助して欲しいものだ。
○ ソマリアの子供たちは飢えている。もっと多くの開発途上国の子供たちも飢えている。お金持ちの国の人たちは食品を無駄に扱っていないでしょうか。
○ この本を読み、私たちは途上国の子供たちの悲惨な現状を知り驚く事が多い。少しでも飢えている子供たちを助ける事ができないでしょうか。
黒柳徹子さんが敢えてこの本をお書きになったのは、「人の幸せを壊す戦争は二度とあってはならない。」という彼女の強い思いであろう。
○ 黒柳徹子さんが何故、こんなにも途上国の子供たちのために活動できるのか、それはきっと一見華やかで元気な黒柳さんにも子供の頃に戦争体験があったからであろう。
今の戦争を知らない世代には実感としてよくわからない「飢える」と言う感覚をよく理解されているからであろう。

私は「さくらももこさん」の「ちびまるこちゃん」のファンでした。「さくらももこさん」のご冥福を心から祈ります。 ○ 所属するプロダクションからの言葉 さくらももこは、平成30年8月15日午後8時29分、乳がんのため永眠いたしました。(享年53) これまで温かい応援をして下さったファンの皆様、お世話になりました関係者の皆様に深く感謝致しますとともに、ここに謹んでご報告申し上げます。 さくらは1984年に漫画家としてデビュー。30周年を迎えた際、次のような言葉があります。 「30年間、良い事も大変な事もいっぱいありましたが、私は作家としてとても幸せな月日を送らせていただいています。感謝にたえません。」(『さくらももこの世界展』「デビュー30周年を迎えて」より抜粋) 作品を描けること、それを楽しんで頂けることをいつも感謝していました。 これからも皆様に楽しんで頂けることが、さくらももこと私達の願いであり喜びです。 なお、通夜・告別式は、ご遺族の意向により親族・近親者のみにより執り行われました。 さくらプロダクションスタッフ一同 平成30年8月27日

私は「さくらももこさん」の「ちびまるこちゃん」のファンでした。「さくらももこさん」のご冥福を心から祈ります。
○ 所属するプロダクションからの言葉
さくらももこは、平成30年8月15日午後8時29分、乳がんのため永眠いたしました。(享年53)

これまで温かい応援をして下さったファンの皆様、お世話になりました関係者の皆様に深く感謝致しますとともに、ここに謹んでご報告申し上げます。

さくらは1984年に漫画家としてデビュー。30周年を迎えた際、次のような言葉があります。

「30年間、良い事も大変な事もいっぱいありましたが、私は作家としてとても幸せな月日を送らせていただいています。感謝にたえません。」(『さくらももこの世界展』「デビュー30周年を迎えて」より抜粋)

作品を描けること、それを楽しんで頂けることをいつも感謝していました。

これからも皆様に楽しんで頂けることが、さくらももこと私達の願いであり喜びです。

なお、通夜・告別式は、ご遺族の意向により親族・近親者のみにより執り行われました。

さくらプロダクションスタッフ一同
平成30年8月27日

2018年8月27日月曜日

「戦史の証言者たち 吉村昭」を読む。 吉村昭氏の作品を読む魅力は証言者たちとの対話の中から、証言者たちの過去の世界にタイムスリップできる事である。吉村昭氏は当時の事情に詳しい関係者に直接面談して説明を受けた、吉村昭氏以外ではなし得なかったであろうノン・フィクションの集大成である。 第二次大戦中の大ニュース ○戦艦武蔵の進水  時代遅れの巨艦巨砲主義の終焉。アメリカ軍の飛行機爆撃により沈没。 ○山本五十六連合艦隊司令長官の戦死  ミッドウエイ海戦から情報戦の敗北。戦う前から敗北だった。長官の搭乗機はアメリカ軍戦闘機の待ち伏せにあって墜落。 ○福留参謀長の遭難と救出。前代未聞、海軍中将が捕虜になった。 日本はゲリラと交渉して福留を解放させ、帰還した福留は海軍次官・沢本頼雄中将らから事情聴取を受けることになるが、本人が徹底して機密書類紛失の容疑を否定した。当時の日本では敵の捕虜となる事をこの上ない恥としており、福留がゲリラに捕縛された事を敵の捕虜になったとみなすかどうかが問題となったが、戦時は捕虜にならなかったという見地で不問になった。    ○伊号第三三潜水艦の沈没と浮揚   伊号第三三潜水艦は1942年9月26日修理中沈没し33名が死亡した。

「戦史の証言者たち 吉村昭」を読む。
吉村昭氏の作品を読む魅力は証言者たちとの対話の中から、証言者たちの過去の世界にタイムスリップできる事である。吉村昭氏は当時の事情に詳しい関係者に直接面談して説明を受けた、吉村昭氏以外ではなし得なかったであろうノン・フィクションの集大成である。
第二次大戦中の大ニュース
○戦艦武蔵の進水
 時代遅れの巨艦巨砲主義の終焉。アメリカ軍の飛行機爆撃により沈没。
○山本五十六連合艦隊司令長官の戦死
 ミッドウエイ海戦から情報戦の敗北。戦う前から敗北だった。長官の搭乗機はアメリカ軍戦闘機の待ち伏せにあって墜落。

○福留参謀長の遭難と救出。前代未聞、海軍中将が捕虜になった。
日本はゲリラと交渉して福留を解放させ、帰還した福留は海軍次官・沢本頼雄中将らから事情聴取を受けることになるが、本人が徹底して機密書類紛失の容疑を否定した。当時の日本では敵の捕虜となる事をこの上ない恥としており、福留がゲリラに捕縛された事を敵の捕虜になったとみなすかどうかが問題となったが、戦時は捕虜にならなかったという見地で不問になった。
  
○伊号第三三潜水艦の沈没と浮揚
  伊号第三三潜水艦は1942年9月26日修理中沈没し33名が死亡した。

ご近所の方が島根県に帰省され、和菓子「神話の月」お土産に頂きました。ああ美味しかった。

ご近所の方が島根県に帰省され、和菓子「神話の月」お土産に頂きました。ああ美味しかった。

8月27日月曜日 千葉市美浜区の高洲市民プールで泳ぐ。気温36℃ 水温31℃ 天下太平、快適だ。 プールの近くの向日葵は元気です。

8月27日月曜日 千葉市美浜区の高洲市民プールで泳ぐ。気温36℃ 水温31℃
天下太平、快適だ。
プールの近くの向日葵は元気です。

「世界は一冊の本 長田弘」を読む。 この本は長田弘さんの詩集である。私は詩集を読む事は少ない。時には詩集を読み自分の心を洗うのも良い事である。 例を挙げよう。 ーーーーーーーーーーーー 「世界は一冊の本」 本を読もう。 もっと本を読もう。 もっともっと本を読もう。 書かれた文字だけが本ではない。 日の光、星の瞬き、鳥の声、 川の音だって本なのだ。 ブナの林の静けさも、 ハナミズキの白い花々も、 おおきな孤独なケヤキの気も、本だ。 人生という本を、人は胸に抱いている。 一個の人間は一冊の本なのだ。 記憶をなくした老人の表情も、本だ。 草原、雲、そして風。 黙って死んでゆくガゼルもヌーも、本だ。 権威をもたない尊厳が、すべてだ。   200億光年のなかの小さな星。 どんなことでもない。生きるとは、 考えることができるということだ。 本を読もう。 もっと本を読もう。 もっともっと本を読もう。

「世界は一冊の本 長田弘」を読む。
この本は長田弘さんの詩集である。私は詩集を読む事は少ない。時には詩集を読み自分の心を洗うのも良い事である。
例を挙げよう。
ーーーーーーーーーーーー
「世界は一冊の本」
本を読もう。
もっと本を読もう。
もっともっと本を読もう。

書かれた文字だけが本ではない。
日の光、星の瞬き、鳥の声、
川の音だって本なのだ。

ブナの林の静けさも、
ハナミズキの白い花々も、
おおきな孤独なケヤキの気も、本だ。

人生という本を、人は胸に抱いている。
一個の人間は一冊の本なのだ。
記憶をなくした老人の表情も、本だ。

草原、雲、そして風。
黙って死んでゆくガゼルもヌーも、本だ。
権威をもたない尊厳が、すべてだ。
 
200億光年のなかの小さな星。
どんなことでもない。生きるとは、
考えることができるということだ。

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「モモ ミヒャエル・エンデ 大島かおり訳」を読む。 私たちは人生の限定した時間をどう生きているのだろうか。毎日あくせくして誰かに自分の時間を盗まれているのではないだろうか。IT産業が発達して人間は、創造的な事に時間を使える筈であった。私達は誰かに時間を盗まれてしまったのではあるまいか。 ーーーーーーーーーーーーー ○ 「景色を見るには目が必要で、音を聞くには耳が必要、そして時間を感じるには心が必要」 「この世にはそれを人と分ち合う事が出来なければ、その身を滅ぼしてしまうくらい貴重な富がある」 ーーーーーーーーーーーー ○ 物語の舞台は近代ヨーロッパを思わせる架空の都市。浮浪児の少女、モモが主人公である。 ○ 町はずれの円形劇場あとにまよいこんだ不思議な少女モモ。町の人たちはモモに話を聞いてもらうと、幸福な気もちになるのでした。 モモは、誰もが思わず自分のことを話したくなったり、仲たがいしている者同士を何も言わずにじっと見るだけで和解させたりする不思議な力をもっている。 モモとその仲間たちは、創造的で豊かな毎日を過ごしてた。 ○ そこへ、「時間どろぼう」の男たちの魔の手が忍び寄ります。 時間貯蓄銀行と呼ばれる灰色の組織が、人々にそれと気づかれることなく効率よく無駄なく時間の節約を強いることで自分たちが生きながらえるだけの時間をせっせと盗んでいた。(時間貯蓄"銀行"というが、一度取られた時間は引き出すこともできず、自分の意思でその貯蓄を止めることはできない。 一方的に搾取されるばかりだ。引き換えに効率的で無機質で人々が険悪で何かに追われる脅迫的な日々は手に入るが)灰色の組織は人々の潜在意識に入ることにはことごとく成功するのだが、モモに対しては失敗した。 ○ 特別な存在であるモモに対して灰色の一人が自分たちの秘密をバラしてしまい、灰色の男たちはモモを危険な存在として確保しようと画策する。 ○ ここでモモを助けたのが、この世界の神様のような存在であるマイスター・ホラと亀のカシオペイア。マイスター・ホラはモモに対して時間の真理を教える。 ○ マイスター・ホラの世界から元の世界に戻ったモモだが、世界はすっかり変わっており、かつての友人はすっかり灰色の組織によって、効率の奴隷と化していた。 モモと独創性的な日々を送っていた仲間たちは、忙しい日々を送るようになり、嫌としりつつもそんな生活から抜け出せなくなっていた。 ○ 最終的にはモモはマイスター・ホラとカシオペイアの助けにより、灰色の組織を壊滅させ、人々にゆとりある生活を取り戻すことになる。 ○ 最後に、「作者のみじかいあとがき」 汽車でのりあわせたきみょうな乗客の話、 「わたしはいまの話を、」とそのひとは言いました。「過去におこったことのように話しましたね。でもそれを将来おこることとしてお話ししてもよかったんですよ。わたしにとっては、どちらでもそう大きなちがいはありません。」

「モモ ミヒャエル・エンデ 大島かおり訳」を読む。
私たちは人生の限定した時間をどう生きているのだろうか。毎日あくせくして誰かに自分の時間を盗まれているのではないだろうか。IT産業が発達して人間は、創造的な事に時間を使える筈であった。私達は誰かに時間を盗まれてしまったのではあるまいか。
ーーーーーーーーーーーーー
○ 「景色を見るには目が必要で、音を聞くには耳が必要、そして時間を感じるには心が必要」
「この世にはそれを人と分ち合う事が出来なければ、その身を滅ぼしてしまうくらい貴重な富がある」
ーーーーーーーーーーーー
○ 物語の舞台は近代ヨーロッパを思わせる架空の都市。浮浪児の少女、モモが主人公である。
○ 町はずれの円形劇場あとにまよいこんだ不思議な少女モモ。町の人たちはモモに話を聞いてもらうと、幸福な気もちになるのでした。
モモは、誰もが思わず自分のことを話したくなったり、仲たがいしている者同士を何も言わずにじっと見るだけで和解させたりする不思議な力をもっている。
モモとその仲間たちは、創造的で豊かな毎日を過ごしてた。
○ そこへ、「時間どろぼう」の男たちの魔の手が忍び寄ります。
時間貯蓄銀行と呼ばれる灰色の組織が、人々にそれと気づかれることなく効率よく無駄なく時間の節約を強いることで自分たちが生きながらえるだけの時間をせっせと盗んでいた。(時間貯蓄"銀行"というが、一度取られた時間は引き出すこともできず、自分の意思でその貯蓄を止めることはできない。
一方的に搾取されるばかりだ。引き換えに効率的で無機質で人々が険悪で何かに追われる脅迫的な日々は手に入るが)灰色の組織は人々の潜在意識に入ることにはことごとく成功するのだが、モモに対しては失敗した。
○ 特別な存在であるモモに対して灰色の一人が自分たちの秘密をバラしてしまい、灰色の男たちはモモを危険な存在として確保しようと画策する。
○ ここでモモを助けたのが、この世界の神様のような存在であるマイスター・ホラと亀のカシオペイア。マイスター・ホラはモモに対して時間の真理を教える。
○ マイスター・ホラの世界から元の世界に戻ったモモだが、世界はすっかり変わっており、かつての友人はすっかり灰色の組織によって、効率の奴隷と化していた。
モモと独創性的な日々を送っていた仲間たちは、忙しい日々を送るようになり、嫌としりつつもそんな生活から抜け出せなくなっていた。
○ 最終的にはモモはマイスター・ホラとカシオペイアの助けにより、灰色の組織を壊滅させ、人々にゆとりある生活を取り戻すことになる。
○ 最後に、「作者のみじかいあとがき」
汽車でのりあわせたきみょうな乗客の話、
「わたしはいまの話を、」とそのひとは言いました。「過去におこったことのように話しましたね。でもそれを将来おこることとしてお話ししてもよかったんですよ。わたしにとっては、どちらでもそう大きなちがいはありません。」